普門軒の禅寺日記・京都の宿坊・お寺に泊まる

ブログトップ

随う

不立文字。禅の真理は「以心伝心」で、師の赤心と弟子の赤心とがぴたりと呼応してはじめて伝わる。そこでは禅者はけっして文字にたよらず、しかも文字を自由に使っていく。(秋月龍珉)


十年前、普門軒の住職となり、『普門軒の禅寺日記』としてブログを始めた。しかしここ数年、更新の機会も減り、自分自身 ここで一新し、「普門軒の”不”不立文字」と題して、ひと文字の漢字を取り上げ、禅と日本の思想の深層に触れていきたい。


随う

「したがう」という言葉を聞けば、一般的「従う」という言葉が浮かぶのではないだろうか。上司に従うだけの俺のサラリーマン人生か。法律に遵うだけのせせこましい社会か。


近代人においては「したがう」という語彙には、何かへの従属や何かからの服従といった否定的な意味合いがある。確かに「従」という漢字の正字(旧字体)「從」は道を行くという意の「辶」に「人人」が書かれておるとおり、「人にしたがう」という意味となるのである。また「遵う」という言葉もある。「辶」と、うやまうという「尊」からなり、「敬うべきものにしたがう」という意味となる。


禅の「したがう」は、上記の字を用いない。


禅の言う「したがう」は「随う」という字を用いる。


「随」の正字「隨」は、神が用いる梯子「阝」と、祈りに使う道具とそれを持つ手「左」と、神に奉げる肉「月」に、「辶」からなる字である。神の決まったやり方の通り「道理したがう」という意味となる。


禅の修行には多くの決まりがあり、多くの型にしたがう。もちろん先輩や指導者の言うことにもしたがう。しかし禅者はその決まりに遵うのではなく。先輩や指導者に従うのではなく、その決まり、言葉の真相にある道理に「随う」のである。それはただ「道」に随うのである。これは禅者の「したがう」という態度の心根である。だから「随う」ことは否定的な意味はまったくない。むしろ積極的に「随う」のであり、随わなければならないのである。


禅に限らず、大工や左官、書道や武道、畑仕事に仏事に至るまで、以前の日本人はみんな、先輩や型に従っていたのではなく、随っていたのである。道理に随えばいいのである。


その道に随った先には、もう道(辶)は消え去り、素直なという意の「川」と顔を表す「頁」、逆らわずに、おだやかに「順う」という境地につながっていく。


「心は万境に随って転じ、転処実に能く幽なり」『伝灯録』


[PR]
by fumonken | 2018-01-08 12:07 | "不"不立文字