普門軒の禅寺日記・京都の宿坊・お寺に泊まる

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習慣

「これは、ベルギー戦に敗北した後の日本代表のロッカールームです。スタジアムでファンに感謝し、ベンチもロッカーも全てを掃除して、メディアに話した。ロシア語で「ありがとう」というメモまで残して。まさに全てのチームのお手本! 日本を迎えられて、光栄だわ!」

サッカー日本代表チームの試合後のロッカールームを見て、FIFAの運営スタッフのツイッターに書かれた一文だそうだ。

日本代表がベルギー戦に敗れ、惜しくもベスト8を逃した。その試合後の選手のロッカールームは、きちんと清掃され、整理された状態であったという。

私はこの話を耳にしたとき、本当感動した。

確かに日本人には何か終えた後、きれいに掃除をしていくと言う習慣がある。試合後のサポーターのスタジアムの掃除は今では世界的に有名になっている。

しかしまさか選手までが、掃除をして帰っているとは。しかし代表選手。全員プロで活躍する超一流の選手だ。その超一流の選手が掃除をして帰っているとは夢にも思わなかった。これは誰からともなく、掃除をして行っているのだろう。何を考えることもなく、そういう習慣なのだろう。

習慣だとしても、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」である。

私は彼らに会ったこともない一市井の僧侶だが、本当に彼らを誇りに思う。本当にありがとうございます。

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# by fumonken | 2018-07-04 17:49 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

悟り・・・鈴木大拙『禅』より

”人生の根本問題は、主客を分かつものであってはならぬ。問いは知性的に起されるのであるが、答えは体験的でなくてはならぬ。なぜならば、知性の性質として、知性上の答えは必ず次から次と問いを呼び求め、最後の答えに到り着くことがない。その上、たとえ知性の解決というものが得られたとしても、それはつねに知性の上に留まり、おのれ自身の存在を揺り動かすものとはなり得ない。”

禅ではよく、「なりきる」という言葉を発するが、修業時代に先輩の修行僧に「なりきれ!」と言われたものだが、正直、意味を理解しておらなかった。

「なりきる」ことは答えではなく、答えにたどりつくための方法である。「なりきる」というやり方に知性は必要ない。むし知性を持って臨むと「なりきれ」ない。



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# by fumonken | 2018-06-29 21:35 | Comments(0)

衛兵交代

衛兵交代というと凛々しい衛兵たちが厳粛な面持ちで、その儀式を行うものだ。多くの国の宮殿や官邸などで行われる。
我が日本にも皇居の正門で行われている。

皇居の衛兵交代は他の国と大きな違いがある。

他の国の交代式は小銃などを高々と掲げておこうなが、皇居の交代式ではそれがない。

それはこの国の最も大切な場所、皇居を守るものが軍人(衛兵)ではなく、皇宮護衛官(警察)だからだ。

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# by fumonken | 2018-04-15 19:55 | "不"不立文字 | Comments(0)

故郷

もうすぐ46歳になる。ここ数年、妙に故郷のことを考える。故郷を思う年齢なったのか。

私の故郷は愛知県の豊田市と言うところだ。トヨタ自動車の企業城下町だが、私の育った地域は、豊田市の中心街でもなければ、郊外の住宅街でも、街道の商店街でもない。故郷の遠方には北に猿投山、東に六所山、炮烙山の山々を望むことができる。近くには野見山、秋葉山があり、また矢作川が流れ、その恵みによって田畑が開かれた地域である。建武元年(1334)創建のお寺があり、建武5年(1338)創建の神社があり、鎮守の森には今も変わらず大木が茂る。

南北朝時代から続く私の故郷。この長い時間の間、人が生まれ、暮らし、子を産んで、そして死に、またその子供が、暮らし、子を産み、そして死んでいったのだ。そんな人々の営みの連続が650年以上も続いている土地である。戦国時代には織田信長の軍勢にお寺は焼かれたが、村の人々は再建した。また江戸中期に治水工事が行われ、当時の元号をとって安永川とつけられた。小学校も古く、明治5年(1872)の学制発布の年にできたので、今年で146年目に入る。曾祖父も祖父も母も私も同じ小学校に通った。

私が子供の頃、集落の家々は瓦屋根の平屋の木造家屋が大半だった。友達の家に行くと古い木造家屋の独特の匂いがしたのを覚えている。そんな木造家屋も今は建て替えられ、新築のプレハブ住宅が帰郷するたびに多くなっている。でも表札は私の覚えている名字がそのままかけられていて、空き地になったり、コインパークになっていることはない。集落の中を走る道は、古地図のままで、今でも人々の暮らしを支えている。

室生犀星の詩に『ふるさとは 遠きにありて思ふもの』とあるが、本当にそうだと感じる。

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# by fumonken | 2018-04-05 09:56 | "不"不立文字 | Comments(0)

人の死を「亡くなる」という。

上に形「亠」(ナベブタ)は「人」を意味する。そして下の「L」はものかげを意味する。人がものかげに身を隠す形が「亡」の字だ。人が死ぬことを、ものかげに隠れたのだと古来の人々は捉えた。人の死とは無くなったのではなく、亡くなった(隠れた)のだ。

同じ 「亠」(ナベブタ)に「交」の字があるが、上の「亠」ははやり「人」の意味で、 下の「父」の字は人が足を組んでいる、交差させている形で、そこからまじわるという意味の字になったらしい。

線香の煙ははじめは目に見えるのだが、しばらくすると目に見えなくなる。しかしさっきまでは確かにあった。目にすることができた。では、煙は無くなってしまったのか。

煙は亡くなってしまったのだろう。そして周りのものと交わっていったのだろう。

人の死とはそういうものだと思う。

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# by fumonken | 2018-03-26 16:37 | "不"不立文字 | Comments(0)

伝統

伝統とは、古くからのしきたり・様式・傾向、血筋、などの有形無形の系統を受け伝えることである。

伝統の言葉を見ると「統を伝える」と読める。「統」とはおおもとや基本という意味の目的語になり、「伝」は動詞といえる。

そこで、これが「言統」だったらと考える。「統を言う」となり、おおもと、基本を単に言うことになる。
単に言うことだから、その「統」の内容は新しいことでも、外から入ってきたものでも、もちろん古くからのことでも、その対象は限定的ではなくなるであろう。

しかし「伝える」という言葉には、伝える内容に時間的、系統的な意味合いをもつ。単に今の事象を言うのではない。時間軸の有無にこそ「伝」である意味がある。

現在の即物的な即興的な世界観とはずいぶん違う。

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# by fumonken | 2018-03-05 11:27 | "不"不立文字 | Comments(0)

戦前

先日、祖母が亡くなった。101歳の長寿であった。
大正5年生まれで、大東亜戦争の開戦の年、25歳である。
13年前になくなった祖父は明治42年生まれであったので開戦の年は32歳であった。

生前、祖父、祖母ともにいろいろな話を聞いた。もちろん戦前の話を聞いた。25歳、32歳と言えばすでに大人である。


私の中の生きた戦前がその日なくなった。


思えば、戦前と戦後でいろいろな事柄が変わってしまった。もちろん人間は変わらない。苦しみ、悩み、恋をして・・・。


しかし、家族が変わり、風景が変わり、国柄が変わってしまった。確かに変わってしまった。


私の中の生きた戦前がもうなくなってしまった。

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# by fumonken | 2018-02-23 17:04 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

漢字の「命」の音読みは「メイ」であるが、ひざまづいている人に言いつける「令」に「口」をつけることで、言いつける意味をより明らかにしたという意味らしい。そこから派生して大いなる天の命ずるところつまり運命、人の寿命という意味に派生した。

日本語(訓読み)では「命」は「いのち」と読む。
「いのち」は「生き」「息」を意味するらしい。「ち」は「内(うち)」を意味するらしい。つまり「生きの内」「息の内」。生きている間、息をしている期間といいううことだ。

日本の場合は「いのち」を「生きる」「息」と直接結びつけている。

我々は大きな目に見えないものによって生かされているのであろう。それをGODと呼んだり、天と呼んだりすることもある。しかし所詮は「息」をしていることが「生き」ていることであるのだろう。命とは息をする力のことであろう。

私たちは食事を食べ、働き、充実感も得たり、冬になれば体を暖め、夏になれば冷やし、危険が起きれば身をかばう。これもすべて息をするための力を保つためなのだろうか。

息が止まったとき、命はつきる。

命とは息をすること。

「息」は「生きる」と「命」が同じ音であり、「息」は「自ずから」の「心」と書く。

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# by fumonken | 2018-02-12 20:41 | "不"不立文字 | Comments(0)

新しい

「新しきことを聞く」とでも言おうか。明治の人はNEWSを「新聞」と訳した。新しいことを聞く。現代はインターネットの発達によって、明治のその頃とは比べものにならないほど、「新しい」ものが伝わるのも早ければ、その「新しい」ものの量も半端ではない。言い換えれば、現代は「新しい」もので埋め尽くされている。


家電製品でも、服でも同じ値段なら多くの人は「新しい」方を選ぶ。同じ家賃なら築年数の「新しい」方を選ぶ。普門軒は築100年近い建物だ。だから火災保険の会社からすると建物の評価額は0円である。それはいう「新しさ」による基準から来る。

現代は「新しい」ことを礼賛し、「新しい」方のが”よい”という価値をつけてしまったためだろうか。その結果、現代のものごと多くは、長きにわたり伝えたいとか、続けたいとか、残したいなどという思いよりも、「新しさ」が結局上回る。

古代漢人は「新」という字を用いた。これが実に面白い。「立っている木を斤(おの)で切り倒す」これをもって「新しさ」と見た。現代人は切り倒すことにとりつかれ、切り倒し続けていくことが目的になってしまっているのか。


禅にとって「新しい」とはどういうことか。 それは「苟に日(ひび)に新たに、日々に新たにして、又た日(ひび)に新たなり」という言葉にあるとおり、外のものごとに「新しさ」を求めるのではなく、己の心に「新しさ」を持ちなさいという。 一新、一所、一瞬。その場、その場、その時、その時で打ち込む「新しい」心を持て。さっきまでの気持ちを持ち込まず、腹を立ててもすぐに笑って済ませる。その潔さこそが「新しさ」の姿であるという。

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# by fumonken | 2018-01-22 11:28 | "不"不立文字 | Comments(0)

稽古

現代人は日々、新しいもの、新しい方法、新しい状態を求め、またその創出に腐心している。言い換えれば、現代人の人生は常に新しいものごとで覆い尽くされている。


「稽古」という言葉がある。これは和製漢語で、漢語にはない。「稽」は考えるとか、とどめるといった意味だが、なぜ日本人は考えとどめる対象を「古」としたのだろうか。現代人から言わせれば、「なんで新しいものを学ばずに、古いものを学ぶんだ」ということになる。


「古」という漢字は「十」に「口」。「十世代(長き)にわたって伝わったこと」。長く伝わっている、途切れていないという意味を含むのだ。時間的古さではなく、時間的長さを「古い」というのである。


日本人は「稽古」という言葉に、学ぶ対象とは「その古さ=時間的長さ=道」なんだという思いを含めたのだろうと思いたい。そしてこれは日本人だけではなく、漢語では「温故知新」という言葉が浮かぶ。

しかし多くの現代日本人はそのことをすっかり忘れてしまった。1年経てばなくなってしまうような自己啓発セミナーなんぞは学ぶべき、とどめるべき対象ではない!


「後来風雪悪し、木は折る古岩の前」 『禅林類聚』

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# by fumonken | 2018-01-18 12:20 | "不"不立文字 | Comments(0)

鉄道

私は鉄道が好きである。特に駅舎が好きだ。大都会の東京駅。何本ものレールが走り、分岐器によって見事に切り替えられる。そのレールが一日の乗客が一桁という駅とつながっているかと思うと、何ともいえない感傷に浸ってしまう。

鉄道が英国で走ったのが1825年で、その約30年後、1853年に鉄道の模型がロシアから紹介された。そしてその2年後、1855年に佐賀藩は鉄道の模型を作ってしまった。

時は明治維新、王政復古の大号令が下った慶応三年(1868年)。まだ瓦解していない江戸幕府は、江戸横浜間に鉄道敷設する決定した。しかし幕府は鉄道敷設の技術が未熟な日本では自力での建設は難しいと考え、その敷設を米国に委ねたのだ。

すぐに明治に入り成立した新政府は、幕府と米国の約束を却下し、我が国が主体的に敷設をするという方針に切り替えたのだ。その際、資金、技術支援などは英国を選定した。そして明治3年に着工し、明治5年(1872年)10月14日(旧暦9月12日)、日本人がはじめて鉄道を目にしてから20年もたたないうちに実用化してしまった。

その10月14日は今、鉄道の日として記念日となっている。私は10年前の10月14日に普門軒の住職となった(まったく関係ないが)。

「寧ろ熱鉄を身に纏うも、信心の人の衣を受けじ」『虚堂録』

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# by fumonken | 2018-01-15 17:51 | "不"不立文字 | Comments(0)

言う

「言」という字の上は「心」で、下は「口」である。心を口にするということが「言(ゲン)」であるとみた古代漢人の感性は興味深い。


そしてその「言」という字を受けた日本人は「ゲン」という音読みと「い・う」と「こと」という大和言葉をあてた。大和言葉において「こと」は「言」と「事」の両方の意味を持つ。つながっているものであるという考えがあった。


これは言霊という言葉には霊的な力が宿ると信じられた思想からもわかる。しかし支那語では、口にすることと、実際の事柄・出来事とは違う字をあてているし、もちろん発音も違う。この点は日本人と漢人の世界観の違いである。


「言うまいと思えど今日の暑さかな」読み人知らず

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# by fumonken | 2018-01-11 11:09 | "不"不立文字 | Comments(0)

随う

不立文字。禅の真理は「以心伝心」で、師の赤心と弟子の赤心とがぴたりと呼応してはじめて伝わる。そこでは禅者はけっして文字にたよらず、しかも文字を自由に使っていく。(秋月龍珉)


十年前、普門軒の住職となり、『普門軒の禅寺日記』としてブログを始めた。しかしここ数年、更新の機会も減り、自分自身 ここで一新し、「普門軒の”不”不立文字」と題して、ひと文字の漢字を取り上げ、禅と日本の思想の深層に触れていきたい。


随う

「したがう」という言葉を聞けば、一般的「従う」という言葉が浮かぶのではないだろうか。上司に従うだけの俺のサラリーマン人生か。法律に遵うだけのせせこましい社会か。


近代人においては「したがう」という語彙には、何かへの従属や何かからの服従といった否定的な意味合いがある。確かに「従」という漢字の正字(旧字体)「從」は道を行くという意の「辶」に「人人」が書かれておるとおり、「人にしたがう」という意味となるのである。また「遵う」という言葉もある。「辶」と、うやまうという「尊」からなり、「敬うべきものにしたがう」という意味となる。


禅の「したがう」は、上記の字を用いない。


禅の言う「したがう」は「随う」という字を用いる。


「随」の正字「隨」は、神が用いる梯子「阝」と、祈りに使う道具とそれを持つ手「左」と、神に奉げる肉「月」に、「辶」からなる字である。神の決まったやり方の通り「道理したがう」という意味となる。


禅の修行には多くの決まりがあり、多くの型にしたがう。もちろん先輩や指導者の言うことにもしたがう。しかし禅者はその決まりに遵うのではなく。先輩や指導者に従うのではなく、その決まり、言葉の真相にある道理に「随う」のである。それはただ「道」に随うのである。これは禅者の「したがう」という態度の心根である。だから「随う」ことは否定的な意味はまったくない。むしろ積極的に「随う」のであり、随わなければならないのである。


禅に限らず、大工や左官、書道や武道、畑仕事に仏事に至るまで、以前の日本人はみんな、先輩や型に従っていたのではなく、随っていたのである。道理に随えばいいのである。


その道に随った先には、もう道(辶)は消え去り、素直なという意の「川」と顔を表す「頁」、逆らわずに、おだやかに「順う」という境地につながっていく。


「心は万境に随って転じ、転処実に能く幽なり」『伝灯録』


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# by fumonken | 2018-01-08 12:07 | "不"不立文字 | Comments(0)

もったいない

以前に「もったいない」について調べ、考えたことがある。

私の至った結論から言うと「もったいない」という言葉は、「諸行無常」という仏教用語を日本の言葉で訳した言葉だと考える。

「もったいない」を漢字で書くと「勿体無い」と書くが、もともと「物体無い」と書いた和製漢語。漢字の音だけ借りた日本の言葉である。「物体」とはものごと、ありさまと理解していいと思う。

その漢字の音は呉音である。呉音は漢音より古い(音)読み方で、お経や仏教語の読みは、ほとんど呉音といわれている。

日本人は実に的確な漢字を当てた。「モッタイ」という大和言葉に呉音を使って「物体」という漢字を当てた。

この世の実存はすべて本質も形も常に流動、変化するもので「もったいない(物体は無い)」。これはまさに「諸行は無常」という仏教語が私には見えてくる。ここに「物体が無い」ではなく「物体は無い」と「は」を使うとすっきりする。「ものごとは無い」「ありさまは無常」ということだ。


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# by fumonken | 2017-11-02 19:35 | Comments(0)

言挙げ

日本についてである。「言挙げ(ことあげ)」とは、神道において宗教的な教えや解釈を「ことば」によって明確にすることを言う。自分の意思をはっきりと言葉に出していう「言挙げ」をしたとき、それが自分の慢心から来たものの場合、悪い結果がもたらされるという。

「身振り」という言葉があるが、これは「言挙げ」をせずに、意思を伝える手法である。

柿本人麻呂の歌に「葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国」とある。

言葉よりも行動に重きを置くというのが日本の文化であろう。

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# by fumonken | 2017-09-24 12:40 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

随筆

「エッセイ」という言葉が英語にはある。「essay」と書く。日本語ではエッセーとか、随想、そして随筆と訳される場合もある。「essay」はもとはフランス語の「essai」から来た。

フランス語で「essai」は試しとか、試作、試験という意味で、英語ではtry、trial、testと訳される。

この「essay」を随想、随筆と訳していいのだろうか。

随筆。文字通りに見れば、筆に随う(したがう)ということだ。試すといったように能動的な意味は無い。むしろ筆に随う、筆にまかせるわけだから受動的である。


筆に随う。いかにも日本的な「試み」である。

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# by fumonken | 2017-09-23 20:17 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

お盆を前にして

祖先崇拝とは、既に亡くなられた祖先が、生きている我々の生活に影響を与えている、あるいは与えることができる、という信仰に基づく宗教観、宗教行為のことだ。

これは稲作との関連があるとされている。その理由はいくつかあるが、二、三ご紹介する。稲作はその土地に住み着き、移動しない生活を送りる。人が亡くなっても、その生活空間と遠く離れないところに埋葬することができる。いつでも祖先とそばに居続けられるのだ。そして稲作の作業は家族を単位とします。田は子々孫々に受け継がれます。田の大きさがその家族の富と直結する。また稲作の水利など共同作業は村単位として営まれた。それは家単位のみでなく同時に地域の祖先、神々の恩恵との考えが、祖先崇拝の原点になったということだ。

稲作により、縦軸として祖先のへの感謝が生まれ、横軸として家族地域への愛情が生まれる。

しかし現在、人々は生まれ育った地を移動でき、その仕事も土地・環境・季節とは直接関連しない場合が多い。その結果か、実際に、祖先崇拝の行為は非常に薄らいでいるといえる。

かくいう私も生まれ育った地を移動した。しかしかろうじて、坊さんになったおかげで土地・環境・季節と関連する営みを得たことにより、縦軸として祖先のへの感謝が生まれ、横軸として家族地域への愛情が生まれ、自覚することができた。
私は普門軒の住職として、普門軒の檀信徒へは祖先崇拝の大切を伝えていきたい。

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# by fumonken | 2017-08-02 15:50 | Comments(0)

宝蔵経

怨恨(うらみ)なき教えを仏教となし
訴訟(あらそい)なき教えを仏教となし
誂謗(そしり)なき教えを仏教となす
宝蔵経

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# by fumonken | 2017-07-22 15:31 | 禅・仏教について | Comments(0)

階段の工事

4月下旬より、植木屋さん、石屋さんにアドバイスや工事の仕方を教えていただき、始めた階段の工事もようやく目処が立った。後は左官屋さんに仕上げてもらうことになる。
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# by fumonken | 2017-06-29 19:42 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

京都の景観

京町家は、訳48000軒(平成21年)から約40000軒(平成28年)に減少。
今なお、年間約2%の割合で滅失が進行している。空き家率も14%を超えている。
※1950年(昭和25年)以前に京都市内に建てられた町屋を含む木造家屋のこと。

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# by fumonken | 2017-06-22 16:44 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

訓読みと音読み

日本語の表記は仮名と漢字だ。仮名ももともと漢字である。つまり日本語の表記は外国の文字である漢字で表記されている。英語もアルファベットで表記されるがアルファベットも元をたどれば、外国の文字であるギリシア文字に由来する。同じようなものだ。

しかし日本語の特徴は、漢字のもともとの発音に加え、日本語の発音も漢字に加えたことだ。つまり訓読みである。

たとえば「こんにちは」を漢字で書くと「今日は」となる。発音は「こんにちは」であり、「
きょうは」とは発音しない。古代の日本人も「こんにちは」と言っていたのだろう。「ありがとう」も「有り難う」と漢字で書くが、発音は「ゆうなん」とはいわない。訓読みをもつことにより、日本古来の日本語が保たれたと言っていい。

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# by fumonken | 2017-06-07 21:21 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

independenceと独り

independenceという英語の言葉は否定を表す「in」+依存を表すdependenceからなる。つまり「依存しない」という意味である。そして明治になって日本人はindependenceという漢字として「独」をつっかた熟語「独立」という字を当てた。

独という漢字は正字では「獨」と書き、けものを表す「犭」と牡を表す「蜀」からなる。もともとの意は「犬がケンカする」と言う意である。犬は寄り合うとケンカをするので、一匹ずつ離しておいたことから、ひいてはひとり、相手がない、人の助けによらない状態や様子などを表す字となった。まさに依存しないindependenceである。

漢字の歴史からみれば、独りである理由、依存しない理由が「ケンカをしてしまう」からというのが興味深い。



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# by fumonken | 2017-04-02 10:26 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

ルール=いいからやれ!

ルール。「rule」と書くが、語源は「まっすぐな棒切れ」でラテン語 regulaだそうだ。
「まっすぐな棒切れ」から「ものさし」の意になり、さらに派生して、我々が周知の意味「規則、法則、習慣、標準」などになった。しかし特筆すべきは「支配」という意味があることだ。故にruleの動詞は「支配する、思いのままにする。指示する」という意味をも持つことだ。

一方「規」だが、興味深いことに同じく「ものさし」が語源で、派生し「法、掟、手本」などの意になり、動詞としては「戒める、いさめる」という意を持つ。しかし「支配」という意は見当たらない。
「則」の語源は「鼎=見」に「リ=刀」でできており、「鼎」に刀で傷をつけて標準にしたと言う意で、「規」と同様の意になり、やはり「支配」という意は見当たらない。

大和言葉の「きまり」だが、古くは「決まり」と書くが、漢字の「決」の語源は「川の水が堤を切って流れる」で、結果がすぐ見えてしまうことから「決める、定まる」と意に派生したらしい。さらに興味深いのは「思い切って、勢いよく、すばやい」という意で、さらに「決心、決断」など「覚悟」の意ももつ。古代日本人「きまり」という大和言葉に「規」や「則」を当てずに、「決」の字を用いたのは当てたのは非常におもしろい。

日本人にとって「ルール」とは規則、標準という意味よりは、禅的な「いいからやれ!」に近いのではないか。


規則が支配まで派生した英語と、規則はあくまでも規則である漢字。



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# by fumonken | 2017-03-29 13:24 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

源泉

親子、家族、地域、社会に対する愛情の深さ。
先祖に対する誇りの深さ。

一つ目は横のつながり。二つ目は縦のつながり。

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# by fumonken | 2017-02-18 13:14 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

何も役に立てずに

何も役に立てずにもう44年も過ぎてしまった。
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# by fumonken | 2017-02-14 22:17 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

建国記念の日

今日は建国記念の日。もちろん祝日だ。今日、投宿された20代の3人の方に今日は何の日か聞いた。誰も答えられなかった。
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# by fumonken | 2017-02-11 10:29 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

今年の指針

今年の目標は上杉鷹山の言葉にしたい。
「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」
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# by fumonken | 2017-01-07 05:47 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

1月、ゴールデンウィーク、7月、8月、12月は投宿できません

宿坊可能の期間ですが、1月、ゴールデンウィーク、7月、8月、12月は行事が重なるため、投宿していただけません。宜しくお願いします。
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# by fumonken | 2016-11-23 11:59 | 宿坊について | Comments(0)

百歳に

私事で恐縮だが、今日、9月20日に私の祖母は満百歳を迎えた。非常にありがたいことで、私の祖母は特別悪いところもなく、百歳という年齢においては健康だと言える。祖母自身、あと3年は大丈夫だと思うよといっているくらいだ。

以前「よっぽど業が深いのか、なかなか死ねんねー」といっていた。という仏教の言葉が普通に出てくることに驚いた。

「ほんじゃ、おばあちゃん、今ここに強盗が刃物を持ってきたどうするん」と聞くと、

「ほりゃー、逃げるよ」と即座に答えた。

確かにが深いなーと思えておかしかった。


※ここでいうとは、仏教的な意味あいではなく、あくまでも日本語の表現としての意味合いなので、その点のコメントは差し控えてほしい。
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# by fumonken | 2016-09-20 19:35 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

私と公

気がつけば、すでに9月。2ヶ月もブログを更新していないと、いろいろな方面からどうしたのかと失跡をいただく。久しぶりにブログを更新しなくては。やはり関心のある漢字ついて書こう。

「私」という字は、穀物という意の「禾(のぎへん)」に、囲うという意の「口」(のちに「ム」となる)からなる。穀物を自分だけのものとして囲うというのが「私」の語源だ。「ム」という字は「自分だけのものとして囲う」というのである。非常に興味深い。

一方、「公」は、「自分だけのものとして囲う」という「ム」という字と「八」の字からなる。自分だけのものとして囲っているものをどうするというのか。

実は「八」の字の意は「開く」という意の字であるという。

自分だけのものとして囲っているもの、もしくは囲もうととしたものを「開く」というのが「公」の語源なのである。



ちなみに「和」という字は、「禾」と「口」から成り、「私」の字のように穀物を自分だけのものとして囲うという字のように見える。しかし「和」の「禾」はのぎへんではなく、加わるという意で、部首としては「口(くちへん)」の字である。「和」は人の声に応じ合わせるというのがその語源である。
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# by fumonken | 2016-09-10 10:25 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)