普門軒の禅寺日記・京都の宿坊・お寺に泊まる

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「鮮明な冬」   高村光太郎

「鮮明な冬」   高村光太郎

黒船以来の総決算の時が来た 民族の育ちが それを可能にした

長い間こづきまわされながら なめられながら しぼられながら

仮装舞踏会まであえてしながら 彼らに学び得るかぎりを学び

彼らの力を隅から隅まで測量し 彼らのえげつなさを満喫したのだ

今こそ古にかへり 源にさかのぼり 一瀉千里の奔流となり得る日が来た

われら民族の此の世に在るいわれが はじめて人の目に形となるのだ

ひよどりが鳴いている 冬である 山茶花が散っている 冬である

だが昨日は遠い昔であり 天然までが我にかえった鮮明な冬である
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# by fumonken | 2014-09-08 20:14 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

六十九年目の終戦記念日

今日は六十九回目の終戦記念日となる。六十九年前、三年半にわたる対米戦争をしていたとは、なかなか想像もつかないくらい年月が経った。戦争に行った人、銃後を護った人。戦争経験者も随分と少なくなった。昨年は「永遠の0」という大東亜戦争をあつかった映画が、近年の映画の中でも突出した成績を記録しており、年代を選ばない映画であったことも特徴的だったという。この映画や小説を通して、大東亜戦争の一面を知った若い世代が多かったという。

私は今年四十二歳で、もちろん大東亜戦争の経験はない。祖父は2人とも明治生まれで当時三十歳後半だったので、直接、戦地に赴いてはいない。

母方の祖父に八月十五日のことを聞いたことがある。戦地には赴いておらず、田舎で、直接、空襲という大きな戦争被害を受けていないので、祖父の終戦の日の話には、私たちが学校で受けてきた、悲惨な戦場のイメージはない。八月十五日、それは暑い日だったようである。私の祖父は防空壕を掘っていると、村の人が「まあ戦争が終るで、防空壕をほらんでいいよ」と言われたそうである。その正午、はじめて玉音放送を通して天皇陛下のお声を聞きいた。録音、音響が悪く、音声はよぼよぼで、ところどころは理解できるが、しっかりとその内容はわからなかったという。日本が負けた、つまり敗戦だとは思わなかった。ただ戦争は終わったのだと言うことはわかったそうである。「やれやれ、これでもう空襲もない」「もう死なないですむ。ありがたいことだ」。私の祖父は思ったそうだ。

戦争が終わって一番はじめにやりたかったことは何かと聞くと、「子供たちを川で思う存分遊ばせてやりたかった」と祖父は言った。
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# by fumonken | 2014-08-15 08:35 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

気と禅

修行でも仕事でも「やらされる」と思っている間を、「気が無い」という。

「気が無い」状態から脱する方法として、禅の修行では「言われたことをすぐにやる」「いいわけはしない」を徹底する。もちろん理屈にあわないことも言われるし、時に感情的な怒号も飛ぶし、理不尽なことなど山のようにある。しかし、考える前に「言われたことをすぐにやる」、正当な理由があろうとも「いいわけはしない」。禅の修行ではこれに徹しなくてはならない。

そんな「言われたことをすぐにやる」「いいわけはしない」修行に半年も徹していくと、言われる前にさっと動いて気が利き、周りの状況に対して気が回り、少しずつ、少しずつ「気が付く」のである。

さらに「言われたことをすぐにやる」「いいわけはしない」修行を続けていくと、個人差はあれど、誰でも「気を遣う」ことができるようになる。

確かに気が進まなかったり、気が抜ける時もある。しかし禅の修行にはそんなことも織り込み済みで、ちゃんと気を休めたり、気を紛らわす時間も取られている。やる時は徹底してやり、休み時は徹底して休む。そうすれば気も晴れるのである。

よーし、私もようやく「気を遣う」ことができるようになったと言って、禅の修行は終わりだと思ってはならない。さらに「言われたことをすぐにやる」「いいわけはしない」修行を重ねていかなくていくことで、何を言われても、心がさっと働き、どんな場合でも平常心でいられる。そんな「気にならない」己をつかむことができるのである。これが禅の境地である。
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# by fumonken | 2014-08-07 07:56 | 禅の暮らし | Comments(0)

気と心

元来、東洋では、「理」が万有を支配する原理であるのに対して、万物を形成する元素を「気」という。

そして「心」が精神活動を行う本体的なものであるに対して、「気」はその「心」の状態・反応など現象として表れたと見る。「気は心」という言葉も、表面的な「気」の働きは、本体としての「心」の表れであるという考え方に基づくのだ。
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# by fumonken | 2014-08-03 17:53 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

なぜ靴下のなのか

私は靴下を履かないが、なぜ靴の中なのに「靴下」と翻訳したのか。調べてみると、衣服に関しては単に垂直方向の上下だけではなく、むしろ体の中心に向かって近い方が下で、遠い方が上となるようだ。下着と上着でわかるとおりである。下には、内側という意味もあるらしい。だから靴下でも言葉として間違いではないということだ。
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# by fumonken | 2014-07-30 10:25 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

来たときよりも美しく

「来たときよりも美しく」と小学校の遠足の時に、先生から言われたことを今でも覚えている。

ワールドカップの試合後、日本人のサポーターがゴミ拾いをしている姿が、地元ブラジルのメディアで報じられ、話題になったという。そしてブラジル・リオデジャネイロの州政府は、「すばらしい行為だ」と表彰することを決定したそうだ。

これは行為というのか、活動というのか、習慣、習性か。

やはり教育というのは大切で、また何を教えてるのかということは更に大切である。
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# by fumonken | 2014-07-12 20:56 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

坐禅について

禅の暮らし、日本の暮らしをしたければ、何よりも庭を持たなくてはならい。大きくなくても構わないが、せめて六畳分くらいの大きさはほしい。地面のうえ、下草が生え、木が植わっていて、小石があり、石が据えられている。ライトアップなんか必要ない。静かであれば尚いい。

その庭の木はひたすら植わったまま。石はひたすら据えられたまま。あれやこれや為そうとしない。そんなに和の前で己は坐禅をする。目の前の庭の木や石と同じように、己はただひたすらに坐ったまま。あれやこれや為そうとしない。己の中の自然がもどってくる。

そのためにも、何よりも庭を持たなくてはならない。
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# by fumonken | 2014-07-11 06:16 | 禅・仏教について | Comments(0)

思想と思考

思想と思考という言葉があるが、どう違うのか。

「思想」は人生・社会・政治などに対する一定の考え。
「思考」は直観・経験・知識などをもとに,あれこれと思いめぐらすこと。

こう辞書では書いてある。思想は明治の言葉で、つまり西洋の言葉を訳した和製漢語である。思考もそうだと思われる。もともと思考にあたる日本語は「思惟」で、思いはからうこと。考えること。分別することである。もともと仏教の言葉である。

「思惟」は空の思想が発展すると「一切の思惟分別を断ずる、これを正思惟となづく」などといい、禅においては真実は無智、無分別、無思惟のところで得られるというのである。

「人間は考える葦」と言う言葉があるが、全く違う「思想」をもっている。
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# by fumonken | 2014-07-07 19:43 | 禅・仏教について | Comments(2)

フランス語の数字の数え方

フランス語の数字の言い方が非常におもしろい。

例えば、26だったら「20、6」と言う。同じように55だったら「50、5」と言う。69までは日本語同じように数える。

しかし70からおもしろい。

70の場合は「60、10」と言うのである。そして76までは「60、17」というのだが、77、78、79の場合は「60、10、7」、「60、10、8」、「60、10、9」と言うのである。

80から99までがさらにおもしろい。

80をなんと「4、20」と言う。4×20=80だからであろうか。よって86の場合は「4、20、6」と言い、96の場合は「4、20、15」というのである。

そして97、98、99の場合は「4、20、10、7」、「4、20、10、9」、「4、20、10、9」、と言うのである。

つまり70、80、90という言葉がないのである。

しかし、同じフランス語を使う、スイスやベルギーでは70以降の数字の読み方は、71だったら、「70、1」とか、86だったら「80、6」といい、それぞれ70、80、90という言葉がある。

同様に同じラテン語系のスペイン語、イタリア語は70以降も70、80、90という言葉がある。
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# by fumonken | 2014-06-23 20:37 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

禅の暮らし

師匠の寺で数年暮らしたアメリカ人が10年ぶりにお越しになった。私ははじめてお会いする方だったが、いろいろなことを語り合った。彼は今、アメリカでユダヤ教のラバイをしている。ラバイとは仏教で言うところの和尚である。

彼は久しぶりの禅寺の生活に、ここは私にとって、エデンの園のようなものだといった。禅の暮らしとはどのようなものか尋ねると、

禅寺の暮らしは、生活と哲学の境がなく、体と心の境がなく、自然と人間の境がないといった。
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# by fumonken | 2014-06-14 19:48 | 禅の暮らし | Comments(0)

日本という国の一面

知人に教えていただいた文章を紹介する。これはベンゲル元名古屋グランパス監督の言葉だ。

『日本人はヨーロッパを美しく誤解している。しかし実際のヨーロッパは全然違う。日本が東京のような大都会とすれば、ヨーロッパはアフリカのサバンナのようなところだ。治安が悪いのはもちろんのこと、日本人と比較すればヨーロッパ人の民度は恐ろしく低く、日本では当たり前に通用する善意や思いやりは全く通じない。隙あらばだまそうとする奴ばかりだ。

日本と違い階級社会である為、会話の全く通じない無知な愚か者も多い。私は、時々、欧州事情に疎い日本人が欧州に行ったら、精神に異常を来たしてしまうのではないか?と心配することがよくある。

欧州について何も知らない日本人が欧州に移り住むというのは、都会の快適な場所に住んでいる人間を、ライオンがうようよいるアフリカのサバンナに丸裸で放り込むのと変わらないだろう。悲惨な結果になるのは目に見えている。

日本ほど素晴らしい国は、世界中のどこにもないだろう。これは私の確信であり事実だ。

問題は、日本の素晴らしさ・突出したレベルの高さについて、日本人自身が全くわかっていない事だ。おかしな話だが、日本人は本気で、日本はダメな国と思っている。最初は冗談で言っているのかと思ったが、本気とわかって心底驚いた記憶がある。信じられるかい?こんな理想的な素晴らしい国を築いたというのに、誇ることすらしない。 本当に奇妙な人達だ。

しかし我々欧州の人間から見ると、日本の現実は奇跡にしか思えないのである。だから、私はいつも、欧州に行きたいという選手がいたら、よく考えて決めるべきとアドバイスしている。日本でレベルアップできるなら、日本より(国の発展が)遅れている欧州諸国に行く必要は全く無い。欧州では人種差別もあるので、力があっても出場すらさせてもらえないかもしれない。リスクが大きすぎるのだ。

日本のリーグのレベルを上げる事の方を、安易な欧州進出よりも優先すべきである。もしどうしても行きたければ、ドイツのような人種差別意識の低い国のリーグか、ビッグリーグよりレベルの少し落ちる国のリーグに行って、実績を積んでから、ビッグリーグに移籍すべきだ。 』
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# by fumonken | 2014-06-12 12:36 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

「幸せ」とは

今日は憲法記念日である。日本国憲法第13条の条文は一般に「幸福追求権」とよばている。私は憲法学者ではないので、細かいことをつっこまないでいただきたい。

この日本国憲法では、幸福は「追求するもの」とだとらえている。それ故どうかはわからないが、多くの人は「幸せになりたい」といって幸福を求める。

禅には「日々是好日」という言葉がある。この語を文字通りに解釈すれば「毎日が平穏無事である」という意味であるが、単に毎日が好日(=幸福)であるでは禅的解釈にはならない。多くの人は「今日も一日、好い日(=幸福)でありますように」と無事を願うが、願うからこそ幸福にはなれないというのである。願った幸福にならないから、人はいらだち、怒り、憎しみを抱き、幸福とはよほど離れたものに陥る。

自然をみれば、毎日がいい天気の日ばかりではない。雨の日もあれ、風の日もある。われわれの人生もいっしょで、様々な問題が起き、悩ませられることばかりであるが、悩まされるから、いい日もある。いい日もあるから問題も起きる。それをそれとして受け入れる。とらわれない。

幸福を追求するよりもむしろ、幸福にとらわれない心境を得ることが、実は本当の好日(=幸福)であると、禅ではいうのである。「幸福追求権」とは全く以て真逆である。
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# by fumonken | 2014-05-03 09:02 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

虫たちが鳴き始めました

暖かくなりました。今夜は虫の音が聞こえました。すっかり春です。
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# by fumonken | 2014-04-30 21:10 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

昭和の日

今日は昭和の日です。日本の歴史は他の国々と比べると非常に長いので、それぞれの時代に、いろいろな大きな変革があり、これまで2000年近く一つの国として続いてきました。その中でも昭和は日本の歴史にとって大切な時代の一つです。

今年、昭和2年生まれの方が満87歳になります。昭和も遠くなりにけりですね。
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# by fumonken | 2014-04-29 21:41 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

「自然」とは

明治時代、西洋の言葉をたくさん訳しました。その作業たるや、日本の近代化に非常に役立ったことは言うまでも有りません。しかし同時に、大きな間違いをしてしまった訳語がいくつかあります。その一つがnatureです。

英和辞典を引いてみて下さい。私たちは今、natureを「自然」と訳します。言い換えるとnatureの意味として「自然」という漢字を当てています。

仏教学者の鈴木大拙はこのnatureに対して「自然」という字を採用したことを、
「これがわれらをして、東洋的思想の中で最も大切で根本的なものを忘れ去らしめた事由となったのである」
と言っておられます。

東洋的思想の中で最も大切で根本的なものが「自然」という概念であると言っておるのです。

では「自然」とはどういう意味なのか。

「この「自然」とは「自ら然る」の義で、仏教者のいう「自然法爾(じねんほうに)」である。他から何らの拘束も受けず、自分本具のものをそのままにしておく、あるいはそのままで働くの義である。(中略)「自然」には相対性はない、また客観的でない。むしろ主体的で絶対性をもっている。「自己本来に然り」という考えの中には、それに対峙して考えられるものはない。自他を離れて自体的、主体的なるもの、これを「自然」というのである。
西洋のnatureは二元的で「人」と対峙する、相剋する、どちらかが勝たなくてはならぬ。東洋の「自然」は「人」を入れておる。離れるのは「人」の方からである。「自然」にそむくから、自ら倒れて行く。『日本再発見』より

少々長く引用しましたが。おわかりなりましたか。
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# by fumonken | 2014-04-19 20:09 | 禅・仏教について | Comments(0)

力とは

人間力、直感力、発想力、交渉力、営業力など、とかく何々力などといったことが求められる今日この頃です。でも「力」とは他に対して誇示するものではなく、己の内に秘めるものと思います。本来何々力なんてものはありません。それはまやかしと言ってもいいでしょう。力とは自分を信じる力のことです。自分を信じる力は、継続によって、培われていくものです。
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# by fumonken | 2014-04-15 21:36 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

ご結婚おめでとう

○○さんへ

京都の普門軒です。ご無沙汰しております。この度はご結婚おめでとうございます。式の方はいかがでしたか。当分□□の方にいるんですか。□□の桜はもう見頃は過ぎたでしょうか。

さて結婚の時、つまり晴れやかなときには多くの友達、知人が集まってくれます。でも本当の信頼できる人というのは、苦難になったときに集まってくれる人のことです。そういう人を一人でも多く、作って下さい。また○○さん自身も、相手に対してそういう人になって下さい。それにもっとも必要なことは「信」の道です。

「信」とは人+言で、約束をまもること。つまり言うこととすることを同じくすることです。これを言行一致といい、これは禅のもっとも大切にするところです。つまり「信」とは言行一致の精進の上に成り立つのです。

言行一致の精進をして始めて人に用いられるようになります。これを「信用」といいます。信用されてさらに精進することで、人に頼られるようになります。これを「信頼」といいます。さらに言行一致の精進を積み重ねると、人に任されるようになります。これを「信任」といいます。

どうぞ、お互いのことを信じてください。同時に信じてもらえるように精進して下さい。われわれの人生とは「信」の道なんです。この「信」の道をあゆむことで、気づけば、自らを信じることができるようになるんです。これを「自信」というんです。
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# by fumonken | 2014-04-09 11:59 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

とんち話

とんち話というと、

「そもんさん!」

「せっぱ!」

と言いますが、これは
「作麼生(そもさん)」=問題を出すぞ!
「説破(せっぱ)」=答えてみせよう!


と言う意味です。「作麼生」は宋代の俗語だと言うことです。


とんちは頓智と書きます。頓は「すぐに、即座に、急に」と言う意味で、智は仏教の言葉「智慧」のことで、真理を見極める認識力という意味です。

難しく言うと、頓智とは「その場に応じて即座に対応できる、認識力」といえます。

これは何ににもとらわれていないからこそ、即座に対応できる。これこそ禅の真髄です。「無我」や「無心」といってもいいでしょう。
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# by fumonken | 2014-03-25 15:26 | 禅・仏教について | Comments(1)

地球規模化と国際化

国立国語研究所が「外来語」の言い換え提案をしておりますが、その一つに「グローバル化」という言葉を「地球規模化」という日本語に言い換えるよう提案しております。

グローバル化は「globalization」と書きますが、もともと語源的には「globe(球体)」+「al(〜の:形容詞接尾語)」「ization(〜化)」からわかるように、「球状化」という意味です。そこから派生して、全体化、包括化、地球全体化、地球規模化なという意味に使われています。

似たような言葉として、日本語には「国際化」という言葉があります。これは「internationalization」の訳語で、「inter(相互の)」「nation(国家)」「al(〜の)」「ization(〜化)」を訳しております。ちなみに幕末期、「international」の訳語として「万国普通」とか「列国交際」、「各国交際」、「諸国交際」などとしておりました。それが明治30年代頃から「国際」という言葉に統一されました。

グローバル化と国際化。国家の立ち位置がずいぶんと意味が違います。
「グローバル化」には、地球を一つの世界と見るため、それぞれの国家、民族をどうやって地球全体化、地球市民化させていくのか、その方策やまた状態のことです。
一方「国際化」には、地球を多数の国家、民族の集合体と見るため、それぞれの国家、民族をどうやって相互に存在させていくか、交際させていくのか、その方策やまた状態のことです。

外来語のまま使ってしまうと、意味が似ているようで、ずいぶんと違うことに気づかず使ってしまう場合があります。
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# by fumonken | 2014-03-09 08:27 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

大信根

禅の修行において、修行以前に心がけなければならないことがあります。それは「信・疑・勇」です。

信とは、大信根。信じるきることです。
「信じる」ということは本当に大切です。「信じる」ということはとても大きな力を発揮させます。私も三十過ぎてから出家して、ここまでやってこられたのも「信」の一字です。師匠を信じ、道場の師匠を信じ、道場の先輩を信じています。私の申し上げていることは、その「人」を信じているということではありません。その人々が信じている姿とか、信じていることを私も信じているということです。それは何を隠そう禅という世界観であります。
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# by fumonken | 2014-03-06 23:06 | 禅・仏教について | Comments(1)

門より入るものは是れ家珍にあらず

「門より入るものは是れ家珍にあらず」。禅における大切な言葉の一つです。
家珍(かちん)とは家宝のことです。自分の宝物という意味です。
門から入ってくるものには家宝はない。門とは六つの門のことです。
目、鼻、口、耳、肌、意識の六つ門です。

私たちは絶えず、これらの六つ門を通して、外のものを見たり聞いたりして頭に描いていて受け入れています。禅ではそれら、外から入ってきたものは借り物であって、本物ではないというのです。

料理をただ習ったり、教えられたり、本を読んで作っただけで、体験のないものには、決して上手になれるものではない。禅では、受け入れ態勢の体験が非常に厳しく要求されるのです。論より証拠、実行第一。己で料理を作ってみる、自分で食べてみることが大切なのです。

だからといってただすればいいのではありません。日常の生活に於いて、自分なりに工夫していく、役立てていく。それを心がけて実践する。そうやって継続していくうちに、門から入ってきたもののヒントとしながら、己の中にもともとあったものに磨きがかかり、家珍として開発されていくのです。それが禅の修行です。
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# by fumonken | 2014-03-05 15:11 | 禅の暮らし | Comments(0)

新幹線…36秒

私は鉄道が大好きで、中でも新幹線は日本の誇りだと思っております。東海道新幹線は、世界初の高速鉄道で、今年で50年を迎えます。新幹線は単に速いだけではなく、安全性、快適さ、さらに環境に配慮された鉄道です。

そして年間約12万本を運行している新幹線のすばらしさはその正確な運行です。これは他国の高速鉄道は早さだけではなく、まったく追いつけません。平均遅延時間(平成23年度)はなんと36秒です。今年の正月に東京駅近くの火災のためダイヤが大幅にみだれた新幹線は記憶にあると思います。他にも台風や大雪などの影響も含んでの、平均遅延時間36秒! 自然災害がなければ、ほとんど遅れない乗り物。本当に素晴らしいです。
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# by fumonken | 2014-02-19 08:18 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

大雪の東京

そういえば、大雪の東京と言えば、1703年の忠臣蔵、1860年の桜田門外の変、1936年の2・26事件がありました。今日は東京は46年ぶりの大雪だそうですね。何か起きるのでしょうか。
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# by fumonken | 2014-02-08 20:49 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

自信とはー你が信不及なるが為の所以に、今日葛藤すー

你が信不及なるが為の所以に、今日葛藤す。『臨済録』より

お互いの持って生まれたもの(自己)がそのまま真実の本性なんだ、その自己が一番よいのだ信じることができないから、外部の知識や情報に頼って悩んでしまうんだというのです。

山田無文老師は
自信とは、お互いが生まれながらに持っている人間性(自己)の真実というのものが、一番立派なものであると信じる。これを自信というのだ。
どんな学問を覚えるよりも、この生まれたままに持っているも(自己)を、お互いがはっきりと自覚していくこと、自分を掘り下げていくことが、坐禅というものだ。
その生まれ持ったままに持っているもの(自己)が一番よいということを信じることができないから、みんな議論に向かって、学問に向かって理屈をこねるのであるとおっしゃっています。
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# by fumonken | 2014-02-07 16:24 | 禅・仏教について | Comments(0)

臨済録

臨済録。唐の時代の禅僧で、臨済宗の開祖、臨済義玄禅師の言葉をあつめた語録です。臨済宗の聖典と言われております。

西田幾多郎博士は世界中日本が亡くなっても、臨済録と歎異抄さああれば、もう本はいらないと言われておりました。

その臨済録を私たちの解いて下さる書籍はたくさんありますが、私は特に山田無文老師の解説がわかりやすいなーと思っております。
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# by fumonken | 2014-02-05 13:54 | 禅・仏教について | Comments(0)

スルメとガム

「かめばかむほど」と言いますが、ガムは始めは味がありますが、かめばかむほど、味がなくなっていきますね。スルメは始めはかんでも堅いし、そんなに味は感じられません。でもかめばかむほど、味が出てきます。

坐禅はスルメですね。
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# by fumonken | 2014-02-04 18:19 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

信念

社会のルールには大きく、絶対的「原則」を重視するルールと、その場の「人間関係」により構築され 「原則」を非常に重視します。そのためその社会は普遍的、イデオロギー的、理性的、理想的な面をその判断基準とする場合が多いです。一方、昔の日本の社会は原則よりも、むしろその時々や、その場での「人間関係」を重視してきました。そのために派閥的であったり、個別的であったり、感情的、現実的な面をその判断基準とする場合が多いです。

「人間関係」」という目に見える ルールですが、先ほども申し上げたとおり、多分に派閥的であったり、個別的であったり、感情的である。それは、原則社会に比べ、その社会は「対立的にならない」という非常にいい面をもっています。ただ逆に他人任せになりがちで、雇われ根性的な面も持っています。

何にでもいい面も悪い面もあります。

ですから、「人間関係社会」に住む人々それぞれに「信念」が要求されたわけです。
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# by fumonken | 2014-02-01 12:08 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

日本の歴史

「赤ちゃんの頃は肌身離さず、幼い頃は手を離さず、
 小学生の頃は目を離さず、中学生からは心を離さず。」

日本にはながない歴史があります。歴史はその人々が何世代にもわたってはぐくまれた経験でり、それが受け継がれてきている実績です。上の言葉もその長い歴史から生まれてきた言葉の一つでしょう。
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# by fumonken | 2014-01-18 09:32 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

元陸軍少尉の小野田さんの死去

元陸軍少尉の小野田さんが亡くなられたそうです。91歳でした。終戦後も戦争が続いていると信じフィリピン・ルバング島に昭和49年まで潜伏を続けた元陸軍少尉です。私も少し後著者や小野田さんに関する書を読ませていただきましたが、本当に筆舌に尽くし難い方です。また戦前が遠くになった感じがします。心よりご冥福をお祈りいたします。
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# by fumonken | 2014-01-17 13:15 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

生きるとは

さらに昨日の続き

禅の生き方に変えていきたいと思う方は、思考から入ると言うことでよろしいのですが、同時にもう一つ大切なことがあります。それは「師」を見つけることです。書籍やネットだけではだめです。時折でいいです。実際の声を通して、言葉の交わして、思考を学ぶことのできる「師」が必要です。

禅宗の僧侶になる場合、師匠につかないと僧侶になれません。師匠からいろいろなことを学びます。さらに修行道場にいけば、「老師(ろうし)」と呼ばれる「師」がいらっしゃいます。

まずは禅の書籍をてにとって、いろいろ思考されるとよいでしょう。次は、お近くの禅寺に是非、足を運んで下さい。そしてそのお寺の和尚さんと言葉を交わしてみて下さい。行動として坐禅をさせてもらったり、さらに掃除をさせてもらったらよいでしょう。時間がたつにつれ、「師」になってくれる思います。もしだめだったら、普門軒に来て下さい。
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# by fumonken | 2014-01-10 20:25 | 禅の暮らし | Comments(0)