普門軒の禅寺日記・京都の宿坊・お寺に泊まる

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「守る」と言うことと、「とらわれる」ということ

なかなかにしてそれを見極めることは難しい。

「守る」と言うことと、「とらわれる」ということ。自分はそれを守るために行動しているのか、それともそれにとらわれているから行動しているのか。

その見極めは非常に難しい。
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# by fumonken | 2015-10-10 09:21 | 日課抄・歳時記 | Comments(1)

それを言っちゃー、おしめーよ

私は映画『男はつらいよ』が好きだ。寅さんの言葉にはよい台詞がたくさんある。

なかでも最も好きな台詞が

「それを言っちゃー、おしめーよ」

人生にはいろいろなことがある。山もあれば谷もある。いろんな人も居れば、いろんな立場に置かれることもある。しかし、どんなに自分にとって納得のいかないことがあって、やっぱり己の中でかみしめておかないといけないことがある。

それを言葉にすることによって、それを行動におこすことによって、もっと大きなものを失ってしまう。

そんなときは、己の心に対して

「それを言っちゃー、おしめーよ」

と、己の心に対して、叫び、静かに幕を引こう。
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# by fumonken | 2015-10-01 08:47 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

マンネリとマナー

マンネリという言葉がある。これは英語でmannerismのことである。mannerismという言葉は、我々がよく知る言葉manner、マナーにism(主義)をつけた言葉である。

ismという概念は非常にやっかいで、主義のことであるが、主義というと響きはいいが、時として偏ってしまい、またそれに本人が気づかないということも多い。マンネリがいい例である。

マナーも偏りすぎて、マナー主義に陥ると、マンネリになってしまう。

はやり何事も臨機応変にいきたい。
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# by fumonken | 2015-09-16 12:04 | 禅の暮らし | Comments(0)

雑草という草はないんですよ。

お寺という所は因果なもので、草引きという作務がある。草引きをしていると、時折、浮かぶ言葉がある。それは昭和天皇のお言葉だ。

昭和天皇と侍従が皇居内を散策なさっておられる折、雑草が生い茂っていた。それ見て、侍従が随分手を尽くしたのですがこれだけ残ってしまいました。いずれきれいに致します」というような言葉を昭和天皇に述べると、陛下は、

「何を言っているんですか。雑草という草はないんですよ。どの草にも名前はあるんです」。

というお言葉だ。この言葉には続きがあって、調べてみると、こう続く。

「どの植物にも名前があって、それぞれ自分の好きな場所を選んで生を営んでいるんです。人間の一方的な考えで、これを切って掃除してはいけませんよ」とおっしゃったという。
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# by fumonken | 2015-09-05 09:41 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

関心について

「関心」の意味は、心にかける、心配する、気にとめる、注意するという意味である。

「関」という字は旧字体で「關」と書くが、門構えの中の字は「貫く」という意の字である。もともと門に閂(かんぬき)を横に通して、門を閉ざすという意味らしい。転じて関は調べるところという関所の意味になった。また調べるところという意から「関心」、「関知」、「関白」などいう言葉もでてきた。

その「関心」であるが、最近、「関心」というと「興味」という意味合いで用いることが多いと感じる。

これは英語の「interest」を、関心、興味として、いっしょの言葉として翻訳したからではないだろうか。ちなみに、それこそ興味深いことに、「interest」には他に「利益」「利害関係」「利子」という意も含む。

日本語の「関心」という言葉に、いつしか、自分にとって「利のある事柄に対して」心にかける・気にかけるという使い方にはなっていないであろうか。
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# by fumonken | 2015-07-31 20:39 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

「自づから」と「自ら」

「自」と言う字は、鼻の形を形取った字である。鼻を指して自分を示すところから、転じて自己の意味となった。

訓読みでは、「おのづから」と「みづから」と読む。

「己(おの)+づから」と「身(み)+づから」からきている。
「づから」とは「つ+から」で、「つ」とは「の」の意味である。例えば、目の毛で「まつげ」。沖の海底を「沖つ白玉」といったりするが、その「の」という意味である。
「から」はそのまま今の意味での「まま」である。

ゆえに「己づから」は「己のまま」であって、「身づから」は「身のまま」という意味になる。

己と身の違いが「自づから」と「自ら」の違いといえる。
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# by fumonken | 2015-07-01 14:41 | 禅・仏教について | Comments(0)

反復とズレ

以前、小津安二郎監督の映画の本質、根源にある文脈を「反復とズレ」だと、吉田喜重監督はおっしゃっておられた。

「映画『父ありき』のある場面。川で父親と息子が並んで釣りをする。その反復動作。それの繰り返し。それがいつの間にかズレていく。それが父と子が他人になるというふうに私にはうつった」

こうおっしゃっておられる。

「反復とズレ」。なるほど小津映画は確かに「反復」の連続であり、その些細な「反復」の日常を描いている。その中に、独り立ちや結婚、また死といった「ズレ」が描かれる。

「反復」は永遠ではない。いつかは「ズレ」を迎える。生老病死。しかし「ズレ」も永遠ではない。

反復とズレ。どちらも受け入れなくてはならない。反復も無常であり、ズレもまた無常あろう。
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# by fumonken | 2015-05-19 10:34 | 日課抄・歳時記 | Comments(1)

携帯電話、スマートフォンの使用はできません!

お泊まりの方は、携帯電話、スマートフォンの使用はできません!

最近、お泊まりの部屋で、携帯電話、スマートフォンをお使いになる方を見かけました。何人かの人はそのまま、下山(お寺から帰る)していただきました。

くれぐれも携帯電話、スマートフォンは使わないでください。

お寺にいる数時間は、そういうものと一度離れてみてください。もちろん、日中外出されるときはいくらでもお使い下さい。

中には、この際、泊まっている期間は一切、使わないと決めてくる方もおられます。

よろしくお願いいたします。
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# by fumonken | 2015-05-16 09:31 | 宿坊について | Comments(0)

「寺」という字

「寺」という字は非常に興味深い。
「土」と「寸」に分かれるが、「土」はもともと「止」という字で、【使う】という意味がある。「寸」は【手】という意味であることから【仕事をする】という意味になり、ひいては、【仕事をするところ・役所】という意味があったそうである。
時代がさらに下って後漢の時代から、仏教の事務・仕事を行う【てら】という意味になった。

さら「寺」を音符とする時をみると、すこぶるおもしろい。

仕事のできる人が「侍」であり、仕事の日が「時」である。
また、仕事を手すれば「持つ」ことになり、仕事とはコツコツと行うことは、「待つ」ことである。さらに仕事に心と書いて、「恃む」というように、仕事の肝心なことは、己を信じ、自らをあてにせよというのである。孫子に曰く「吾の以って待つ有ることを恃む」というところであろうか。

そして、仕事を通して互いに語り合えば、それが「詩」となるのである。

「寺」とはまさに仕事をするところ、畢竟、己を生かすところである。若い者よ、己を生かしに寺に来い。
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# by fumonken | 2015-05-05 09:39 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

気風、気っ風、気立て、気質

久しぶりのブログであるが、ちょっと気になったことを。
ちょっと気になったことの、「気」である。

知人とこんな話題になった。知人の知人がethicsmorals(倫理)を「気風」と訳したという。

気風とはどんな意味なのか問われ、なかなかうまく答えられなかった。

いろいろ調べてみると、気風とは「気立て、気質、性格」などとある。倫理とは違うようだ。知人に伝えてあげようと思う。
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# by fumonken | 2015-04-21 11:08 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

わかったようで、わからん

昭和の禅者である鈴木大拙博士はこうおっしゃっておられる。

「そうなんだ。わかったようでわからんようなんだ。
ところが、
わかったようで、わからんというところに、
何かわかったものがなければ、
そういうえんのだ。よごすか。
わかったようで、わからんという、ところに、何かわかっておるものがなければ、そういうえんのだ」
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# by fumonken | 2015-02-13 20:32 | 禅・仏教について | Comments(2)

孫子

「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」。孫子の言葉であるが、その孫子は「知によって勝つが第一」「威によって勝つが第二」「武によって勝つが第三」とおっしゃっておられる。
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# by fumonken | 2015-02-11 19:42 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

国民の祝日について

昭和23年まで「国民の祝日」とは言わなかった。「祝祭日」と言った。祝日と祭日を合わせた呼び名で、「国民の祝日」同様に休日であった。

昭和28年の祖父の日記がある。最初のページに略暦がある。「国民祝日」には、
元旦1月1日
成人の日1月15日
春分の日3月21日
天皇誕生日4月29日
憲法記念日5月3日
こどもの日5月5日
秋分の日9月23日
文化の日11月3日
勤労感謝の日11月23日
と9日間の祝日が書かれている。62年たった今、6日間増えている。

明日は「建国記念の日」あるが、終戦後GHQによって廃止されたので、昭和28年にはない。昭和41年になってようやく復活した。しかし名称は当時の政治状況により、「紀元節」から「建国記念の日」に変更された。
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# by fumonken | 2015-02-10 19:18 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

「持っている」

英語で「have」と言えば、「持つ」である。「持つ」と言うことは、何かを所有するという意味である。

しかし、英語のhaveには「所有する」という意味だけではない。

たとえば、関係性を表す場合、
They have two children. 彼らには2人の子供がいる。

身体部分・身体特徴・特質・能力などを表す場合、
I have a sweet voice. 私は美しい声をしている。

感情を表す場合、
I have a grudge against him. 私は彼に恨みがある。

病気などにかかっている場合、
I have a cold. かぜをひいている。

「所有」と言うことは、自分ではないものを所有すると日本語では考える。たとえば、
She has a sweet voice. 彼女は美しい声をしている。声は私自身なのか。恨みという感情は私自身なのか、かぜは私自身なのか。それとも私とは違うものなのか。
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# by fumonken | 2015-02-03 21:07 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

薩摩の男の子

先日、『翔ぶが如く』を見ていたら、

「薩摩ン子ばなー、人に引けをばとんな、うそをつくな、不作法すんな、親に口答えば許さんち育てるのが、女親のつとめでごわんど。あんたの男ン子ば産んだら、心を鬼にして強か母親になってくいやらんとな。」

こんな台詞があった。いつの時代にも必要だなと思った。
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# by fumonken | 2015-01-26 20:45 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

虚しい道

私は得度(出家)して、名をいただいた。「虚道」(きどう)と言う。普門軒の住職についてから、家庭裁判所に行って、戸籍上の名前の変更をした。

虚しい道という。今年4月で43歳になるが、この年になってようやく、己の人生に対して、素直に虚しさを感じるようになれた。己の人生だけではなく、この世の中に対しても虚しさを感じられる。この世は虚しいものだ。

あー、ありがたい。
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# by fumonken | 2015-01-08 15:49 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

差を取る修行

私の師匠筋に当たる盛永宗興老師は「さとり」とは、「差」を取ることだとおっしゃった。
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# by fumonken | 2015-01-05 14:35 | 禅・仏教について | Comments(0)

「今年の漢字」

1年の世相を表す「今年の漢字」に、『税』がが選ばれた。消費税率が17年ぶりに引き上げられたこと、10%の引き上げが議論されたこと主な理由らしい。

『税』であるが、「禾」は、いね。わら。また、穀物の総称を表す。また「兌」は神の言葉を説き分ける人の意味であったらしい。「兌」は喜ぶ。通ずる。とける。あつまるなどの意味がある。

鋭い。説く。悦ぶ。閲っする、蛻(もぬ)ける、脱っするなど「兌」の字を用いる。
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# by fumonken | 2014-12-12 17:20 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

干支の漢字はなぜ?

来年の干支は羊だが、漢字で書くときは「未」と書く。干支の漢字はなぜ普段の動物の漢字と違うのか。十二支は、もともと農業暦であり、農業用語であったそうだ。

1月「子」とは、「増える」という意味。草木は子孫を増やそうと成長しはじめる種子の時期。
2月「丑」とは、「曲がる」「ねじる」の意味。草木の種は芽が出始め、地上に出ていない時期。
3月「寅」とは、「伸び上がる」という意味。草木は少しずつ成長していく時期。
4月「卯」とは、「さかんに茂る」という意味。蒔いた草木は若葉として茂っていく時期。
5月「辰」とは、「動いて伸びる」「整う」という意味。草木がことごとく震い動いて伸びていく時期。
6月「巳」とは、「子宮が胎児をつつむ」という意味。草木に種子ができはじめる時期。
7月「午」とは、「上下が交差する」という意味。草木の成長期から衰退期に交差する時期。
8月「未」とは、「まだ」という意味。草木の果実に味が生じ始めた時期。
9月「申」とは、「手を伸ばす」という意味。草木が伸びきり、草木の果実が成熟して堅くなっていく時期。
10月「酉」とは、「口の細い酒つぼ」の意味。草木の果実が成熟する収穫し、作物から酒を抽出する時期。
11月「戌」とは、「滅びる」という意味。草木が再び枯れはじめる時期。
12月「亥」とは、「とざす」の意味。新たな生命「子」が宿り閉じ込められている時期。

非常に興味深い。
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# by fumonken | 2014-12-10 13:39 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

校歌

私の母校、根川小学校は明治5年の創立である。祖父、母、私、三代にわたってお世話になった。私が京都に移り住んだので、もしそのまま地元にいて、子供がいたら、四代にわたってお世話になったかもしれないと思うと、歴史を感じざるを得ない。

校歌というものは、日本には当然のごとくあるが、世界の中でほとんどの国には、校歌というものがない。日本の統治時代を経た台湾、韓国にはある。そうでない中国にもあるらしい。
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# by fumonken | 2014-11-30 07:52 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

李登輝元総統「日本の教育と私」・・・「自我」排し高い次元に生きる

最後に、最近台湾で、「台湾民主化の道」と言うDVDが出回っています。20年来の台湾の民主化の過程に於いて、私は与党国民党の指導者として、台湾の国民の声に耳を傾け、主流の民意を尊重し、それを改革の推進力として来ました。このDVDの中で台湾の民主化を進めた私に対して、「李登輝は一体何者や?」と問うていました。

それに対して台湾大学史学科の呉密察教授は、『李登輝氏は日本の大正世代に生まれ、徹底的に日本教育の薫陶を受け、忍耐、自制、秩序を重んじ、公の為に奮闘、努力する精神を身につけた人である』と返答しています。

この答に同意はしますが、日本的教育で、最も強調されている“実践躬行”が述べられていません。日本的教育の長所は、武士道精神に表現される実践にあると言えるでしょう。私も知ること、考えること以外に、実践する能力に全ての意義を与えています。

私にとって、人生は1回限りであり、来世はありませんから、一部の宗教が所謂「輪廻」を唱えるのも、私はそれを自己満足に過ぎない話だと思っています。「意義ある生」をより肯定すべきだと思います。

「人間とはなんぞや」、または「自分とは誰だ」という哲学的問題から出発し、自己啓発へ発進すれば、人格及び思想の形づくりが完成できます。「自我」の死への理解を踏まえたうえで、初めて肯定的な意義を持つ「生」が生まれるのです。

実際に、人間は単に魂(心)と肉体から構成されています。けれども精神的な弱さは更に高い次元の存在を必要とするのです。総じて言えば、私達には全ての権限を有する神が必要です。と言っても、すぐに信仰を持つのも簡単ではありません。信仰への第一歩は、見えないから信じない、見えるから信じることでなく、ただ信じること、実践することです。純粋理性から実践理性へと、もっと高い次元に生きる価値を見つけ出すことが、人生の究極の目標です。

従って、この日本的教育によって得られた結論は「私は誰だ」という問いについて、「私は私でない私」なのです。この答えによって、私は正しい人生の価値観を理解し、いろいろな問題へ直面する時にも、「自我」を排除して、客観的立場で正しい解決の方法を考えることができるようになりました。これが日本の教育を通して私に与えられた人生の結論でしょう。

これをもって私の講演を終わらせてもらいます。ありがとうございました。【2006年9月21日付・産経新聞に掲載】
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# by fumonken | 2014-11-12 08:12 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

李登輝元総統「日本の教育と私」・・・誠意ある実践こそ日本精神

武士道とはかつて日本人の道徳体系でした。封建時代には武士が守るべきことを要求されたもの、もしくは教えられたものです。

それは成文法ではない、精々、口伝による、もしくは数人の武士、もしくは学者の筆によって伝えられた僅かの格言があるに過ぎず、むしろそれは語られず、書かれざる掟、心の肉碑に録されたる律法たることが多いのです。不言不文であるだけ、実行によって一層強い効力が認められているのです。

それはいかに有能なりといえども1人の人の頭脳の創造ではなく、またいかに著名なりといえども1人の人物の生涯に基礎するものではなく、数十年、数百年にわたる武士の生活の有機的発達でありました。それがやがては日本人の行動基準となり、生きるための哲学にもなりました。

具体的には、武士道精神は公の心・秩序・名誉・勇気・いさぎよさ・惻隠の情・躬行(きゅうこう)実践を内容にしつつ、日本人の精神として生活の中に深く浸透していったのです。

日本精神について、台湾嘉南大土☆、烏山頭水庫(ダム)を建設した八田與一氏を例として述べましょう。

嘉南大☆の灌漑面積は15万ヘクタール、烏山頭ダムの水源建設総工事費は400万円、当時の台湾総督府の年間予算に匹敵する大工事でした。工事期間は10年、32歳の若さでこの巨大工事を成し遂げた八田氏は、この工事でソーシャルジャスティスを実践、日本人精神を発揮しました。

烏山頭ダムと濁水渓から取り入れた水は合計1億5000万トン。しかし、これでは15万ヘクタール全域に給水することは不可能でした。

八田氏は普通の土木工事の技術者と違い、『ダムと水路を完成すればそれで終わりである!』とは考えませんでした。彼は農民のためにダムや水路を造るのであれば、何とかして農民にあまねく水の恩恵を与え、生産が共に増え、生活の向上があって初めて工事の成功であると考えました。彼はこのために、三年輪作という耕作方法を考え、水をすべての農民に行きわたる方法を講じました。

嘉南大☆の工事で134人もの人が犠牲となりました。完成後に殉工碑が建てられ、その碑には全員の名前が台湾人、日本人の区別なく刻まれていました。

関東大震災の影響で予算が大幅に削られ、従業員を退職させる必要に迫られたことがありました。その時、八田氏は幹部の『優秀な者を退職させると工事に支障が出るので、退職させないでほしい』という言い分に対し、『大きな工事では優秀な少数の者より、平凡な多数の者が仕事をなす。優秀な者は再就職が簡単にできるが、そうでない者は失業してしまい、生活できなくなるのではないか!』といって、優秀な者から解雇しています。

八田夫婦が今も台湾の人々によって尊敬されるのは、義を重んじ、誠をもって率先垂範、実践躬行する日本的精神が脈々と存在しているからです。八田夫婦の例を挙げて、私がここで皆さんに申し上げたい事は、日本精神の良さは、口先だけではなく、実際に行う、誠実をもって行うというところにこそあるのだということです。【2006年9月18日付・産経新聞に掲載】
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# by fumonken | 2014-11-12 08:09 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

李登輝元総統「日本の教育と私」・・・民主主義とは武士道の精神

日本文化の優れた伝統を日本の教育で獲得できた私に、何かなされたでしょうか? これから説明しましょう。

昭和20年8月15日、名古屋城で終戦を迎えた私は数日を経て復員し、京都の下宿に戻ってきました。その時から時間はすでに61年経過し、私もじいさんになりましたが、一昨年、60年ぶりに家族4人でその日本を一週間訪問し、観光する機会を得ました。

この時に私が強く感じたことは、日本は戦後60年で大変な経済発展を遂げたということです。焦土の中から立ち上がり、ついに世界第2位の経済大国を造り上げました。政治も大きく変わり、民主的な平和国家として世界各国の尊敬を得ることができました。その間における人民の努力と指導者の正確な指導に敬意を表したいと思います。

もうひとつ感じたことは、日本文化の優れた伝統が進歩した社会で失われていなかったことです。日本人は敗戦の結果、耐え忍ぶしか道はありませんでした。経済一点張りの繁栄を求めることを余儀なくされたのです。そうした中にあっても、日本人は伝統や文化を失わずに来たのです。

強く記憶に残ったのは、様々な産業におけるサービスの素晴らしさでした。金沢では一流旅館ならではのきめ細かいサービスに驚嘆しましたし、新幹線も車内サービスの充実ぶりに目を見張りました。そこには戦前の日本人が持っていた真面目さや細やかさがはっきり感じられました。

「今の日本の若者はダメだ」という声も聞かれますが、私は決してそうは思いません。日本人は戦前の日本人同様、日本人の美徳をきちんと保持しています。確かに外見的には、緩んだ部分もあるのでしょう。しかし、それはかつてあった社会的な束縛から解放されただけで、日本人の多くは今も社会の規則に従って行動しています。

さらに私が感じたのは、日本人の国家や社会に対する態度がここへ来て大きく変わり始めたことです。戦後60年間の忍耐の時期を経て、経済発展を追求するだけでなく、アジアの一員としての自覚を持つようになりました。武士道精神に基づく日本文化の精神面が強調され始めたのです。

ここ20年間、台湾にデモクラシーを持ち込んで、政治体制を変更した私が「『武士道』解題」を書き、副題にノーブレスオブリージェをキーワードとして、指導者たるべき者の心構えを説くことを考えれば、民主主義と武士道精神の間には、なんら矛盾がないと思います。デモクラシーと言うのは、個人のことを考えるだけではなく、国民の声を聞いて、国家のために働く、武士道の精神でもあるのです。【2006年9月20日付・産経新聞に掲載】
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# by fumonken | 2014-11-11 18:11 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

李登輝元総統「日本の教育と私」・・・生活の中の普遍的な美学

日本文化の優れた面は、かかる高い精神性に代表される、即ち武士道精神に代表される日本人の生活にある哲学であると信じます。心底からこみ上げる強い意志と抑制力を持って個人が公のために心を尽くす以外に、また日本人の生活にある美を尚(たっと)ぶ私的な面があることも忘れてはいけません。

藤原正彦先生は「国家の品格」の書物の中で、日本人の生活内容を「情緒と形の文明」と強調しています。日本人の生活は、自然への感受性と調和であり、もののあわれ、さびとわびを生活の中に見つけ出す、日本人独特の、また、人間として普遍的になくてはならない美学があるのです。

昔、中国で老子は「道可道 非常道」と、道は口で言えるものでなく、口で言えるものは永遠に道ではないと言っています。日本人は生活において花を生けるには花道を、お茶を飲めば茶道と言う様に、生活におけるあらゆる行為が道となっています。それが俳句や和歌という様な形で表現されて、自然との間に共生的関係を持っています。

これは世界の人々にはなかなか分かるものではありません。私が「『武士道』解題」を出版し、そして更に奥の細道を歩きたい気持ちは、日本文化の優れた精神性と美学的日本人の情緒を、何とか外国人や今の若い日本の人々に伝えようと考えたからです。

直感的に、私は芭蕉の著作「奥の細道」は、この様な日本文化の美を丁度よくまとめたものであると思っています。

奥の細道で平泉に到着した芭蕉と曽良が見たのは金鶏山でした。そして昔を偲(しの)びつつ、呆然(ぼうぜん)と立ち尽くして詠んだのが「夏草や兵どもが夢の跡」でした。時間を越えて華やかな過去がすべて一つの草むらにしか過ぎません。山寺を訪れては、蝉の声の潮と周囲の静けさの中で「閑さや岩にしみ入る蝉の声」を詠みました。自然との調和、心にしみこんで何の説明もいりません。

芭蕉は旅情のほてりが醒(さ)めやらず、最後の気力をふるい起こし、海岸沿いに越後の国に入ります。出雲崎に泊まった時に詠まれた「荒海や佐渡に横たふ天河」は、壮大な景観と佐渡への思い入れの入った句でした。

以上の3句は、時間と空間、存在している景観を十分に情緒と形で表した日本人らしさの代表的なものでしょう。【2006年9月19日付・産経新聞に掲載】
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# by fumonken | 2014-11-11 11:11 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

李登輝元総統「日本の教育と私」・・・進歩と伝統築いた武士道精神

私が初めて新渡戸先生の「武士道」-日本人の精神-という本に出会ったのは、旧制の台北高等学校時代でした。武士道などというと、封建時代の亡霊のように言う人もいますが、この本を精読すれば、そのような受け止め方がいかに浅薄なものか、すぐにわかるでしょう。

そしてこれに解説を加えた私の「『武士道』解題」の中で、声を大にして武士道精神を再評価しようと言っているのは、日本および日本人本来の精神的価値観を今一度明確に想起して欲しいと祈るような気持ちで切望しているからです。民族固有の歴史とは何か、伝統とは何かということを、もう一度真剣に考えてほしいのです。

文化の形成は、「伝統」と「進歩」という2つの概念を、いかに止揚(アウフヘーベン)すべきかという問題ですが、「進歩」を重視するあまり「伝統」を軽んずるような二者択一的な生き方は愚の骨頂だと思うのです。

最近の日本では、一般的に、物質的な面に傾いていると言われますが、その結果、皮相な「進歩」に目を奪われ、「伝統」や「文化」の重みを見失うことがあります。「伝統」という基盤があるからこそ、初めて「進歩」が積み上げられるのであり、伝統なくしては真の進歩など、あり得ないのです。

戦後、1946年、私は台湾人に生まれ変わるために日本を離れた後、「新日本」が大きく変わったことも承知しています。そしてその変化が、大きな進歩をもたらし、今日の世界第2の経済大国を造り上げる原動力のひとつになったことも、また否定できない厳然たる事実だと思っております。

しかし、そのために最も大切な「伝統」まで捨て去ってしまったら、それはもはや本来の意味における「進歩」ではあり得ないのではないでしょうか。

有史以来、日本の文化は大陸などから滔滔(とうとう)と流れ込む変化の大波の中で、驚異的な「進歩」を遂げ続けてきたわけですが、結局、それらの奔流に飲み込まれることもなく、日本独自の伝統を立派に築き上げてきました。

日本人には古来、そのような希有なる力と精神が備わっているのです。外来の文化を巧みに取り入れながら、自分にとってより便利で都合のいいものに作り変えていく―このような「新しい文化」の創り方というのは、私は一国の成長、発展という未来への道にとって、非常に大切なものだと思っているのです。

そして、こうした天賦の才に恵まれた日本人がそう簡単に「武士道の精神」や「大和魂」といった貴重な遺産や伝統を捨て去るはずはないと私は固く信じています。

では、日本文化とは何か?その結論を言わなければなりません。私は高い精神と美を尚(たっと)ぶ心の混合体が日本人の生活であると言わざるを得ません。【2006年9月17日付・産経新聞に掲載】
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# by fumonken | 2014-11-09 08:06 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

李登輝元総統「日本の教育と私」・・・多感な時期、人生観に強い影響

私は正式に日本教育を長期にわたって受けた他、家庭の事情や個人的要素が、また強く私の以後の人生観や哲学的思考、日本人観に影響を及ぼしました。1つは父の職業の関係で、公学校6年間に4回も転校し、その為、友達がなかなかできませんでした。1人の兄も故郷の祖母と暮らしていて、家では私1人だけでした。

この経験は多感な私をして、いささか内向的で我の強い人間にしてしまったようです。友達がいない代わりに本を読むことや、スケッチをすることによって時間を過ごすようになりました。

自我意識の目覚めが早い上に、この様な読書好きが、更に自我に固執することになり、強情を張って、母を泣かせたり、学校でも学友との争いや矛盾が起こったりする様になりました。激しい自我の目覚めに続いて、私の心の内に起こってきたのは「人間とは何か」、「我は誰だ」、或いは「人生はどうあるべきか」という自問自答でした。これは母がある時、私に「お前は情熱的で頑固過ぎるところがある。もう少し理性的になってみたら!」と諭してくれたことも関係していました。自分の心の内に沸き起こるものに対して、もっと自ら理性的に対処しようと考えたのです。

そのような少年にとって、古今東西の先哲の書物や言葉にふんだんに接する機会を与えてくれた日本の教育、教養システムほど素晴らしいものはありませんでした。禅に魅せられ、座禅に明け暮れたのもこの頃のことですし、岩波文庫などを通して東洋や西洋のあらゆる文学や哲学に接することができたのも、当時の日本の、教養を重視した教育環境の中に、そのような深い思索の場が用意されていたからであると信じています。

私は日本で最近何冊かの書物を出版しました。それが政治評論であれ、文化的なものであれ、殆どこの若き時代に得た考え方を繰り返し強調し、述べたものに過ぎません。この中で今、日本で一番に関心を持たれているのは新渡戸稲造先生が1900年に英文で出版した『武士道 -日本人の精神-』を解題して書き直したものです。

新渡戸先生との出会いの前にも、既に多くの先哲との出会いがあったわけです。そのうち、日本だけの例を挙げれば、私が自我に悩み、苦行しようと、禅によって自己修練に励んだ時に、鈴木大拙先生の「禅と日本文化」等の著作が非常に役に立ちました。臨済禅師の流れを継ぐ鈴木先生は、この東洋哲学としての禅思想を一早く欧米に紹介すると共に、日本文化に禅思想が深くかかわっていることを詳細に述べています。

懸命に鈴木先生の本を読み漁っているうちに、明治時代における日本精神のもう1人の体現者である西田幾多郎先生に出会いました。文学の方面では夏目漱石先生の偉大な思想的貢献を忘れてはなりません。明治44年頃、ロンドンからの帰国後における「私の個人主義」を中心とした創作が徐々に「則天去私」に移り変わる過程は本当に偉大な精神転換でした。【2006年9月16日付・産経新聞に掲載】
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# by fumonken | 2014-11-07 08:05 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

李登輝元総統「日本の教育と私」・・・新知識が儒家の呪縛を解いた

台湾総督府が1895年4月に開庁されましたが、その年の7月には今の士林という所に「国語学校」が開校されました。植民地統治を教育から始めたことは世界にも例のないことです。

日本による新しい教育を台湾に導入したことによって、伝統的な書房や私塾は次々と没落し、台湾人は公学校を通して新しい知識である博物・数学・歴史・地理・社会・物理・化学・体育・音楽等を吸収し、徐々に儒家や科挙の束縛から抜け出すことができました。そして世界の新知識や思潮を知るようになり、近代的国民意識が養成されました。

1925年には台北高等学校が成立し、台北帝国大学は28年に創立され、台湾人は大学に入る機会を得ました。直接内地である日本に赴き、大学に進学した人もいました。こうしたエリート教育の機構整備以前に、既に医学校・農業専門学校・商業・工業の職業学校が数多く設立されており、これによって台湾のエリートはますます増え、台湾社会の変化は日を追って速くなりました。

教育によって近代観念が台湾に導入された後、時間を守る、法を守る、金融貨幣・衛生・新しい経営観念が徐々に「新台湾人」を作り上げていきました。近代化社会に於ける近代化観念の影響の下、台湾人は新しい教育を受け、徐々に世界の新思潮と新観念が分かるようになりました。

20年頃になると、台湾人は西側の新思潮の影響を受け、各種各様の社会団体を作り、議会民主、政党政治、社会主義、共産主義、地方自治、選挙、自決独立など、様々な主張をし、『日本は台湾人に当然の権利を与えるべきである!』と要求しました。

そして台湾は日本の教育の下に、民主化の要求として、政治運動の拠点となる「文化協会」が台湾人の手によって初めて組織されたのは23年のことでした。

この年に私は台北の北部にあたる淡水郡の三芝庄に生まれました。日本の教育が私に与えた影響は、台湾の上述した様な環境と時代的意義があったと思います。【2006年9月15日付・産経新聞に掲載】
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# by fumonken | 2014-11-05 08:04 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

李登輝元総統「日本の教育と私」・・・培われた生命と魂救う考え方

ご来賓の皆様、こんにちは! ただ今ご紹介を受けました李登輝です。

この春に体調を崩し、5月に予定していた日本旅行を見送ることになり、皆様にもご心配をおかけしました。しかし、医師の指示に従って静養を続けたところ、ようやくここまで回復し、ここ東京で皆様にお会いすることができました。

念願の「奥の細道」を訪ねる夢は、体調の問題もあって今回は叶(かな)いませんが、今日は「日本の教育と私」をテーマに、「奥の細道」に見る日本精神についてお話し、これからの国造りに役立て頂ければと思います。

ご承知の方も多いと思いますが、1994年の春、歴史作家司馬遼太郎先生が『台湾紀行』の著作を終えて再度台湾を訪問なされました。その時、特に時間を作って私を訪れて、対談が行われました。

私はその時、家内に司馬先生との話はどんなテーマがいいかなと話したら、「台湾人に生まれた悲哀にしましょう」と言いました。400年以上の歴史を持つ台湾の人々は、自分の政府もなければ、自分の国というものを持っておらず、国の為に力を尽くすことさえもできない悲哀を持っているからです。

1923年に生まれた私は今年で満83歳になります。そして台湾人に生まれた悲哀を持ちつつも、その一方で、外国の人には味わえない別の経験を持っていることは否めません。それは、生涯の中で多種多様な教育を受けたことです。22歳までは日本の徹底した基本教育、戦後4年受けた中国の大学教育とアメリカ4年間の留学です。

中国の4年間にわたる大学教育も、結局は日本人の教授による日本教育の延長でした。アメリカにおける前後2回の留学は、職業的な面での教育でした。

台湾人に生まれた悲哀と言っても、このような多様な教育、特に日本の教育を受けていなければ、現在の私には、おのれの生命と魂を救う基本的な考え方は得られなかったと思います。日本という国の植民地でありながら、台湾は日本内地とは変わらない教育を与えられたが故に、非常に近代化した文明社会が作り上げられたのです。【2006年9月14日付・産経新聞に掲載】
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# by fumonken | 2014-11-03 08:01 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

台湾に行って

台湾の知人の僧侶の好意で、台湾のお寺に投宿させてもらった。そのお寺には数人の男僧、10人ほどの尼僧と10人ほどの信者が住んでいた。その信者は出家を志している人々らしい。

私がそのお寺に行くと、「阿弥陀婆(おみとふ)」と合掌して言って挨拶をしてくれた。阿弥陀婆とは阿弥陀仏のことである。私も「阿弥陀婆」と挨拶をした。

驚いたことに私が空港で帰りの便を待っているときも、台湾人の僧侶はもちろん、数人の一般の方も私を見て、「阿弥陀婆」と挨拶をしてくれた。
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# by fumonken | 2014-10-30 13:45 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

ナヴォイ劇場

ウズベキスタンに「ナヴォイ劇場」という中央アジアで最も格式高いと言われる劇場がある。大東亜戦争後、ソ連によって不法に抑留させられた旧日本軍の軍人・軍属は、強制労働として、ナヴォイ劇場の建設が課せられた。

抑留者は長時間の労働、半分腐ったような食事が出てくるなど劣悪な環境の中で、『日本に必ず帰って、もう一度桜を見よう。日本人の誇りを捨てるな』の合言葉のもと、妥協のない姿勢で一所懸命に働いた。
そして3年かかるとされたこの建設を2年で完成させたという。

あるウズベキスタンの母親が少年に「ほら、あの日本兵を見なさい。ソ連兵が見ていなくても一所懸命に働いているでしょう。あなたもそんな人間にならなくてはいけません」と言ったという。その少年が後のウズベキスタンのイスラム・カリモフ元大統領である。

ナヴォイ劇場には、日本人抑留者の功績をたたえ、記念のプレートが掲げられている。「日本人は恩人だ。決して捕虜と書くな」という大統領の強い思いで、「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイ―名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。」と日本語で書かれているという。

実際に作業に関わった500人のうち、79人もの日本人が亡くなっている。その墓地にはウズベキスタンの人たちによって、桜の木が植えられている。
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# by fumonken | 2014-10-24 13:46 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)