普門軒の禅寺日記・京都の宿坊・お寺に泊まる

ブログトップ

<   2014年 08月 ( 3 )   > この月の画像一覧

六十九年目の終戦記念日

今日は六十九回目の終戦記念日となる。六十九年前、三年半にわたる対米戦争をしていたとは、なかなか想像もつかないくらい年月が経った。戦争に行った人、銃後を護った人。戦争経験者も随分と少なくなった。昨年は「永遠の0」という大東亜戦争をあつかった映画が、近年の映画の中でも突出した成績を記録しており、年代を選ばない映画であったことも特徴的だったという。この映画や小説を通して、大東亜戦争の一面を知った若い世代が多かったという。

私は今年四十二歳で、もちろん大東亜戦争の経験はない。祖父は2人とも明治生まれで当時三十歳後半だったので、直接、戦地に赴いてはいない。

母方の祖父に八月十五日のことを聞いたことがある。戦地には赴いておらず、田舎で、直接、空襲という大きな戦争被害を受けていないので、祖父の終戦の日の話には、私たちが学校で受けてきた、悲惨な戦場のイメージはない。八月十五日、それは暑い日だったようである。私の祖父は防空壕を掘っていると、村の人が「まあ戦争が終るで、防空壕をほらんでいいよ」と言われたそうである。その正午、はじめて玉音放送を通して天皇陛下のお声を聞きいた。録音、音響が悪く、音声はよぼよぼで、ところどころは理解できるが、しっかりとその内容はわからなかったという。日本が負けた、つまり敗戦だとは思わなかった。ただ戦争は終わったのだと言うことはわかったそうである。「やれやれ、これでもう空襲もない」「もう死なないですむ。ありがたいことだ」。私の祖父は思ったそうだ。

戦争が終わって一番はじめにやりたかったことは何かと聞くと、「子供たちを川で思う存分遊ばせてやりたかった」と祖父は言った。
[PR]
by fumonken | 2014-08-15 08:35 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

気と禅

修行でも仕事でも「やらされる」と思っている間を、「気が無い」という。

「気が無い」状態から脱する方法として、禅の修行では「言われたことをすぐにやる」「いいわけはしない」を徹底する。もちろん理屈にあわないことも言われるし、時に感情的な怒号も飛ぶし、理不尽なことなど山のようにある。しかし、考える前に「言われたことをすぐにやる」、正当な理由があろうとも「いいわけはしない」。禅の修行ではこれに徹しなくてはならない。

そんな「言われたことをすぐにやる」「いいわけはしない」修行に半年も徹していくと、言われる前にさっと動いて気が利き、周りの状況に対して気が回り、少しずつ、少しずつ「気が付く」のである。

さらに「言われたことをすぐにやる」「いいわけはしない」修行を続けていくと、個人差はあれど、誰でも「気を遣う」ことができるようになる。

確かに気が進まなかったり、気が抜ける時もある。しかし禅の修行にはそんなことも織り込み済みで、ちゃんと気を休めたり、気を紛らわす時間も取られている。やる時は徹底してやり、休み時は徹底して休む。そうすれば気も晴れるのである。

よーし、私もようやく「気を遣う」ことができるようになったと言って、禅の修行は終わりだと思ってはならない。さらに「言われたことをすぐにやる」「いいわけはしない」修行を重ねていかなくていくことで、何を言われても、心がさっと働き、どんな場合でも平常心でいられる。そんな「気にならない」己をつかむことができるのである。これが禅の境地である。
[PR]
by fumonken | 2014-08-07 07:56 | 禅の暮らし | Comments(0)

気と心

元来、東洋では、「理」が万有を支配する原理であるのに対して、万物を形成する元素を「気」という。

そして「心」が精神活動を行う本体的なものであるに対して、「気」はその「心」の状態・反応など現象として表れたと見る。「気は心」という言葉も、表面的な「気」の働きは、本体としての「心」の表れであるという考え方に基づくのだ。
[PR]
by fumonken | 2014-08-03 17:53 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)