普門軒の禅寺日記・京都の宿坊・お寺に泊まる

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『中庸』より

孔子さんのお孫さんに当たる子思という方が書かれた大切な著書『中庸』にこんな一節があります。

「天の命(めい)、之れを性と謂う、性に率(したが)う、之れを道と謂う」

「天の命」とは、天、神から与えられた生まれたままの心ことです。
「之れを性と謂う」とは、純粋な人間性のことです。
「性に率う、之れを道と謂う」とは、その純粋な人間性が分かって、生きていく。これが道徳ということだという意味です。

また仏教では、
「天の命(めい)、之れを性と謂う」とは「一切衆生悉皆成仏」ということです。
「性に率う」とは「信じる」ということです。
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by fumonken | 2013-05-20 13:26 | 禅・仏教について | Comments(0)

無事是貴人

この語は臨済宗を開かれた臨済義玄禅師のお言葉です。
私たちは、日本語の中でもよく「無事」という言葉を使います。
どうぞご無事で、無事でお過ごしですか、無事に済みましたなど・・・。

しかし、禅語としての「無事」にはもう少し深い意味があります。
臨済禅師が説くところの「無事」とは、外に向かって求める心(馳求心:ちぐしん)をすっかり捨て切ってしまったさわやかな境涯の意味です。
求める心を捨てろといっても、無気力無関心でいろ、言われたままに生きろということではありません。また損得勘定で生きるなということとも違います。

「無事」とはいわば、求めなくてもよいことに気づいたとらわれのないの境地のことなのです。

"悟り" "ほとけ" "救い" "しあわせ" とはいったい何なのか。それらは求めて得られるどころか、求めれば求めるほど遠くへ 逃げていってしまう。臨済禅師はそれらを自分の外に追い求める愚かしさを私たちに戒められておるのです。
求める心を捨てて、ああしたいこうなりたいといった欲の心を捨てて、限りなく純真無垢な自分と出会った時、無限にして偉大なるものに生かされている自分に気づくことができる。求めずとも既にそれに抱かれ、生き生きと輝いている自分を発見し、確信する。
「無事是貴人」とは、そういったとらわれのない安らぎの境地を心の底から実感した人、老若男女・長幼尊卑の別を超えているひとこそ、本当に貴い尊ぶべき人であるということなのです。
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by fumonken | 2013-05-10 11:17 | 禅・仏教について | Comments(0)

一日作さざれば一日食らわず

唐の時代に百丈懐海という禅のお坊さんがいらっしゃいました。「一日作さざれば一日食らわず」とは百丈懐海の教えです。出家者にとって仕事は一番重要な修業であり、仕事をしないなら食べることは出来ない。という教えです。同時に労働することを通して豊かな人間性も育まれていく、という自らを律した教えです。

百丈懐海が高齢にもかかわらず、日々の畑仕事、庭掃除等を率先して働いておりました。弟子たちが、見かねて農具を隠して休息を願いた。百丈懐海は農具を探しましたが見つからず、その日の食事をとりませんでした。
弟子たちは師匠に、「なぜ食事を召し上がっていただけないのですか?」と尋ねました。すると百丈懐海が「一日作さざれば一日食らわず」と答えました。以後、弟子たちは師匠の仕事を止めることがなかったという。

インドの仏教では、出家者が自らの働くことを戒律で堅く禁じられていました。そのため出家者は托鉢乞食(こつじき)や信者からの布施だけに頼っていたのです。しかし唐代中期以後、政府による僧侶淘汰命令が発され、貴族からの布施が途絶えられ寺院経営成り立たなくなりました。出家者たちは、やむを得ず生活の手段として耕作労働をするようになり、戒律という面の混乱が続いたのです。その時に、百丈懐海はそれまでのインド仏教の戒律の改革を行った。仕事こそは"仏のはからい″であり"仏のすがた″であり、仕事は一番重要な修業であることとして解釈を改め、特徴的な戒律改革を唱えました。
特に禅宗で作務(労働)を重んずるのは、このためです。
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by fumonken | 2013-05-02 16:49 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)