普門軒の禅寺日記・京都の宿坊・お寺に泊まる

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禅の暮らしー「人のせいにしない」

禅の暮らしを通して、禅を己の世界観にする。暮らしは単に行為や空間だけではありません。そのための言動などもとても大切な生活様式です。

その一つが「人のせいにしない」ということです。禅の修行スタイルは常に「自分でする」。そしてそのことは「人のせいにしない」ということです。このことは禅の生きる姿勢「主体性を持つ」ことにつながっていきます。その第一歩が「人のせいにしない」ということです。
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by fumonken | 2012-12-23 21:28 | 禅の暮らし | Comments(0)

植えられる場所があればどこでも

今、お寺と道の境目のわずかな空間を野草畑にする作業をしています。古い瓦をいただいてきて、作っています。なかなかうまく作ってくれています。
はじめはこんなに長い距離、できるかなと心配していましたが、毎日毎日、コツコツと作業をすすめ、今日、半分くらいまで進みました。
日頃はお寺の中で作務をすることが多いのですが、場所柄、境内の外ですから、はじめは彼女の方からあいさつをしていたのですが、今ではいろいろな人が声をかけてきてくれるそうです。このことが何よりの収穫になりましたね。本当にごくろうさん。
ご苦労様です。
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by fumonken | 2012-12-21 21:37 | 作務 | Comments(0)

「立国は私なり。公に非ざるなり。」

「立国は私なり。公に非ざるなり。」

福沢諭吉『痩我慢の説』冒頭より
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by fumonken | 2012-12-15 19:52 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

本来と現実

「理想と現実」という言葉はよく使われますね。「理想は高く」とか、「現実は厳しい」とか言いますね。私たちは理想を求めて進歩して行かなくてはならないのでしょうか。私たちは高い理想を持たなくてはならないのでしょうか。

禅の世界観では「本来と現実」というとらえ方になります。本来の自己に気づき、現在の自分から、本来の自己に戻る。これが禅の世界観です。

本来という言葉には「高い低い」「良い悪い」という二元対立の世界観でははありません。本来の自己に背いて「理想」を追い求めたり、本来の自己を求めず「現実」に甘んじていては、禅のいうところの悟りの道を歩むということにはなりません。
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by fumonken | 2012-12-14 15:50 | 禅・仏教について | Comments(0)

禅の暮らしー「裸足で過ごす」

禅僧では一年間を通して裸足で過ごします。普門軒の場合、11月から女性は靴下をはいていいことにしていますが、男性は原則的に裸足で過ごしてもらっています。

なぜ裸足なのか理由はわかりません。ただ靴をはかず、草履や下駄しか履きませんので、足袋が軍足なら大丈夫ですが、靴下をはくと非常に都合が悪いんです。禅の暮らしでは裸足だととても便利がいいんです。裸足ですと水虫にはなりません。しもやけにもなりません。また足の裏が敏感になります。というのは掃除をしていない日は、畳や床がざらざらしているのがわかります。

ただし朝の掃除の時間は12月からスリッパをはくことにしています。床がとても冷たいんです。
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by fumonken | 2012-12-13 12:48 | 禅の暮らし | Comments(0)

臨済宗の禅とは

臨済宗の禅は、看話禅(かんなぜん)と言われており、禅宗における坐禅修行の一つです。看話禅は公案(こうあん)と言われるいわゆる禅問答を重視し、公案を研究し理解することで大悟(悟り)に至ろうとする禅のことです。

公案はこれまでの祖師方の悟りにいたった物語がその問答の内容です。その悟りの物語を自分自身でとらえ、祖師方の悟りを追体験です。

この公案の重視が、師匠から弟子へと悟りの伝統が引き継がれていくのです。その問答のやりとりは残念ながら公開はされません。

修行を始める修行僧にはじめに渡される公案が隻手音声(せきしゅおんじょう)といわれるものです。白隠禅師が創案した禅の代表的な公案のひとつです。

白隠禅師が修行者たちを前にしてこう言った。
「隻手声あり、その声を聞け」 (大意:両手を打ち合わせると音がする。では片手ではどんな音がしたのか、それを報告しなさい。)
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by fumonken | 2012-12-10 13:58 | 禅・仏教について | Comments(0)