普門軒の禅寺日記・京都の宿坊・お寺に泊まる

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この国のこころ…調和

戦後、アメリカによって一週間で作られた日本国憲法はその三大原則として、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を掲げている。「平和」とはそもそも日本語ではない。日本語にはなかった。少なくとも明治以降に西洋の言葉、peaceを訳した言葉とされている。平和は西洋の概念であるとおり、突き詰めて言えば、yesかnoの世界である。一方にとっては平和でも、一方にとっては平和ではないわけである。つまり平和にした側と平和(征服)にされた側があるわけである。戦後の日本で言えば、平和にされた側である。平和にされた結果、アメリカの価値観が植え付けられ、日本の伝統は否定された。しかし状態で言えば平和である。イラクはアメリカによって平和にされた。しかしイラクの伝統は否定された。

日本には平穏、太平、平安、和合、和楽、大和などという言葉はあった。中でも日本の伝統として平和よりも「調和」という考え方を大切にしたい。調和とはyesかnoの世界ではない。お互い理解し合えない部分も残る。それをお互いが認め合った上でバランスを保つ。一〇〇%の平和よりも、バランスを重んじる。それが調和である。

国際理解、大いに結構。結構ではあるが、理解した結果、一方を間違っている、修正に向かわせようという「平和的」な考え方は、「調和的」な考え方とはほど遠い。
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by fumonken | 2010-10-26 13:55 | Comments(0)

この国のこころでないもの…資本主義

経済学者のカール・マルクスはその著書『資本論』の中で資本主義を以下のように定義した。資本主義とは「生産手段が少数の資本家に集中し、一方で自分の労働力を売るしか生活手段がない多数の労働者が存在する生産様式」。そういう社会を資本主義社会というわけだ。

その特徴として
1.私有財産制
2.民間企業による生産
3.労働市場を通じた雇用、労働
4.市場における自由競争

私は仏教徒として答えたい。資本主義社会は仏道の理想的社会ではない。全くもってない。むしろ真反対の社会である。無我の世界観である仏教において、私有という考え方は卑しまれるものである。自由競争ももちろん恥ずべき考え方である。そもそも仏教の世界において資本主義社会は生まれようはずがない。

私有ではなく公有財産であろう。公といっても国家ではない。「みんな」である。みんなのもの。みんなとは、今生きている人だけではない、これまで生きてきたもの、これから生きるもの。人間だけではない、動物、植物、衆生である。みんなとは衆生である。財産とはみんなのもの。

この点からみても、資本主義社会は仏教の世界観において理想的な社会ではない。
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by fumonken | 2010-10-22 17:11 | 日課抄・歳時記 | Comments(2)

この国のこころ…人道

おそらく今生きている日本人のうち、九割以上の人は「人権は人類普遍の価値」だと認識しているだろう。かくいう私も仏道を歩むまでそう思っていた。
いろいろ日本の伝統社会や歴史をひもといていくとよくわかる。少なくとも戦前までの多くの日本人は「人権は人類普遍の価値」だとは思っていなかったであろう。そういう考え方があると認識している人は一部の学生、もしくは学者であって、市井の日本人は人権などといういかがわしい言葉は知らない。

じゃあ、日本には人権思想はなかったのであろう。答えは「なかった」である。その代わりというか、日本には「人道」という思想はあった。

人道と人権の違い。それは何を主となすかをとらえればわかりやすい。人道の主は「人」であり、人としての道がその内容である。人権の主は「個人」であり、個人の権利がその内容である。

古来、東洋は「人としての道」を以て、政治を行い、商売をし、家庭を守り、子を育てた。そういうことである。
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by fumonken | 2010-10-20 18:11 | Comments(0)

銀幕のスターたちが

昨年、十一月に森繁久彌さんが96歳で亡くなりました。大正二年(1913年)の生まれだそうです。私は森繁さんの「社長シリーズ」が好きでよくレンタルDVDで見ております。非常にショックでした。
今年、九月に入って「社長シリーズ」に共演されてた小林桂樹さんが八六歳で、また私の大好きなクレー時キャッツのメンバー谷啓さんもお亡くなりました。
どんどん、どんどん、昭和が消えていきます。
そして今月、池部良さんが九十二歳で亡くなりました。私のおばあちゃんは大正五年(1916年)生まれで九十四歳。お陰様で今でも元気です。本当に有り難いことです。
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by fumonken | 2010-10-10 17:38 | 日課抄・歳時記 | Comments(1)

この国のこころ…義と少欲知足

「義」とは東洋の思想である儒教の根本概念である。人としての正しい行いを”守る”ことを指す。正しい行いを”する”ではなく、正しい行いを”守る”と言うところが非常に大切なところであろう。もちろん「義」という言葉自体には「正しい行い」の意味があるが、儒教的、道徳的概念としては正しい行いを守ることとなる。それはもともと「義」の意味に「打算や損得から離れた」という意味があるからである。よって儒教における「義」の反対言葉は「利」になるわけである。東洋人にとって損得による行いは、たとえ「正しい」行いであっても「正しくはない」というわけである。

お釈迦さま臨終の際の最後の教えに、このような御言葉がある。
知足の人は地上に臥(ふ)すと雖(いえど)も、なお安楽なりとす。
不知足の者は、天堂に処(しょ)すと雖も亦意(またこころ)に称(かな)わず。
不知足の者は、富めりと雖も而も貧し。

足ることを知っている者は地べたに寝るような生活であっても幸せを感じている。しかし足ることを知らない者は天にある宮殿のような所に住んでいても満足できない。足ることを知らない者はいくら裕福であっても心は貧しい。

このお釈迦さま最後のお言葉を「少欲知足」のお教えである。「少欲知足」の教え、「義」の概念。いずれも自己に対して律するべき姿勢を指す。日本の社会には儒教と仏教の教えが四十年ほど前まではしっかりとあった。確かにあった。
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by fumonken | 2010-10-04 19:37 | Comments(0)