普門軒の禅寺日記・京都の宿坊・お寺に泊まる

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この国のこころ…宗教とイデオロギーの話

宗教とイデオロギー。これは両方とも人間の行動原理であり、観念といわれるものである。

宗教に仏教やキリスト教やイスラム教があるように、イデオロギーにもマルクス主義、自由主義、社会主義、共産主義、構造主義といったようなものがある。

イデオロギーの特徴はきわめて政治的で、闘争的、人工・人為的である特徴を持っている。それはイデオロギーの発展の歴史を見ればわかる。人類は単なる人間の群れから部族へ、部族から民族へ、民族から自然に国へと発展していきた。しかしフランス革命により「国家」という社会的単位ができた。この概念はこれまでのような民族や文化、宗教によって徐々にまとまっていった「国」ではなく、民族、人種、文化に左右されないように、政治的で、闘争的、人工・人為的イデオロギーによってまとまった「国家」だからである。

宗教には神や仏といった人間の力や自然の力を超えた聖なる存在があり、その存在を、観念の理由付けにしている。イデオロギーにも同じようなものがある。イデオロギーは人間の力を超えた存在はなく、その主張の理由付けとして、科学、科学技術を利用している。簡単に言えば、究極、科学・科学技術を信仰する人はその行動原理はイデオロギーにあり、神や仏を信仰する人はその行動原理は宗教にあるといえる。

実はこの三番目の違いこそが、宗教とイデオロギーの大きな違いでである。平たく言えば、人間の力や自然の力を超えた存在を観念として信じるか信じないかということである。
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by fumonken | 2010-07-31 17:59 | Comments(0)

この国のこころ…宗教とイデオロギーの話

つくづく思うことがある。それは「信じる」という人間活動についてである。人は「信じる」という精神行為なしには活動の出来ない動物である。あなたのそばに何も信じていない人はいるであろうか。何も信じなく生きている人がいるであろうか。「信じる」というのは人間活動の根本なんである。そしてその人が「信じる」ものが、その人の世界観(物事の見方・とらえ方・考え方)を作っていくわけだ。

私は禅宗坊主である。私は仏教という宗教を「信じて」いる。仏教という宗教を信じているから、私は仏教という世界観、めがねを通して、家族を持ち、教育を論じ、経済活動をし、宗教的立場を取り、環境問題をとらえ、生きることを考え、そして死んでいくわけである。

では現代の日本人は何を「信じている」のか。「いやー私は無神論者です」。多くの人がそう答えると思います。
しかしその認識は間違っていると、以前も書いた。人は「信じる」という精神行為なしでは生きていけないからである。
日本人の多くはイデオロギーを「信じている」。私にはそう見える。イデオロギーという世界観、めがねを通して、家族を持ち、教育を論じ、経済活動をし、宗教的立場を取り、環境問題をとらえ、生きることを考え、そして死んでいく。

そのイデオロギーとは近代主義というイデオロギーである。
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by fumonken | 2010-07-28 18:30 | Comments(0)

この国のこころ…稽古

書道の稽古、柔道の稽古、芝居の稽古などという。練習と言わずに稽古という言葉を使う。逆にボクシングの稽古、サッカーの稽古などとは言わない。

この「稽古」という言葉。「稽」とは「考える」という意味である。つまり「稽古」とは「古きを稽(かんが)える」という意味である。日本人は物事を学んだり、練習したり、訓練するその姿勢として「古きを稽える」ととらえていたのだ。反復、繰り返しを学ぶことを大切にする姿勢は、日本の「型の文化」につながっていくわけだ。

とにかく新しい知識や新しい技術、外国のトレンドなど追い求めてはいないか。まずはじっくり古きを考えてみてほしい。そこから、しっかりとした幹を作り上げ、そして新しいもの、外のものを吸収する。それが元来の日本人の学ぶ姿勢、人としての道である。
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by fumonken | 2010-07-15 17:21 | Comments(0)

メダカが生まれたよ

実家から持ち帰った水草にはメダカの卵がついておりました。その浮き草を外の手水鉢入れておきました。今日、ふと見ると。その卵から、メダカが孵っておりました。こんな大雨続きの中、力強く泳いでおります。がんばれよ。
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by fumonken | 2010-07-14 16:14 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

コケ張りもずいぶんと

コケ張りもずいぶんと進みました。あと少しで完了です。ただし、若干コケが足りなかったので、残りは八月下旬か九月下旬になってしまいます。仕方がありません。まあ気長に待ちましょう。
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by fumonken | 2010-07-13 17:54 | 作務 | Comments(1)

もうヒグラシが鳴き始めました

 今日、夕刻、掃除をしていると裏山からヒグラシの鳴き声が聞こえます。まだ梅雨も明けていないのに、何か秋めいた感じがしました。

本堂の前には私の天敵であるワンルームマンションが建っている普門軒ですが、そのマンション以外の住宅は、みなさんちゃんと垣根や樹木などを植えており、裏は小さな山ですから、周りにはまだまだ木々が残っております。夕刻からはすっかり涼しくなります。朝は鳥の鳴き声、夜は虫の鳴き声。いいものです。
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by fumonken | 2010-07-12 19:28 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

この国のこころ…人でなし

最近は余り聞かなくなった。そのひとつが「人でなし」という言葉である。「人で無し」とも書く。そのまま読めば、人ではない、人間ではないと言うことだが、この場合の「人」とはどういうことなのだろう。辞書では「人間らしい心を持たず、恩義や人情をわきまえないこと」、こうある。

人間らしい心。やっぱり「心」か。日本人は人間らしい心、恩義や人情をわきまえないものは、人ではないと考えていたのであろう。そんなやつは人ではない。人の皮をかぶった獣だと言ったところであろうか。

もしかしたら、現代の日本人は、その人間らしい心を己が失いがちであるからこそ、「人でなし」という言葉も使われず、また使う必要のない世の中になってしまったであろうか。ならばその人間らしい心とはどういう心とはなんぞや。私の「日本人の心の旅」はまだ始まったばかりである。
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by fumonken | 2010-07-07 15:38 | Comments(0)

この国のこころ…切ない

「切ない」…悲しさや恋しさで、胸がしめつけられるようである。やりきれない。やるせない。辞書ではこのように書かれておる。切断、切開、切迫、痛切…。切り裂く、断ち切る、さしせまる。皆さんご存じの通り「切る」という意味である。しかし「切」は、大切、切実、切なる思い、切に思うという使い方もある。

では「切ない」とは何を切ることなのだろうか、何を切るくらいの思いなのだろうか。「切ない」とは「心が切れるほどの思い」を意味すると言われておる。心が切れるほどの思い。最近、心が切れるほどの思いしたことがあったであろうか。もっともっと、この「切ない」気持ちを大切にしたいものである。

実はこの「こころ」。これがこれから私が紹介したい「この国のこころ」の主題でもある。
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by fumonken | 2010-07-04 21:25 | Comments(0)