普門軒の禅寺日記・京都の宿坊・お寺に泊まる

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この国のこころ…儒教について

伝統的な日本人の思想体系は、神道、仏教そして儒教の教義がその根底に基づいている。今日その中の儒教について少し。儒教は五常の徳を持って、五倫の関係を保ちなさいと教える。五常(ごじょう)とは仁、義、礼、智、信という五つの徳である。そして五倫(ごりん)とは親子、君臣、夫婦、長幼、友人の五つの関係である。

仁…人を思いやること。最高の徳。
義…利欲に囚われず、すべきことをすること。対義語は「利」。
礼…人間関係において秩序(長幼・立場)を守ること。
智…学問に励むこと。
信…誠実であること。

さらに下の三つも大切な徳目とされています。
忠…主君に尽くすこと。
孝…親に尽くすこと。
悌…年長者に尽くすこと。

我々、戦後の教育で育った日本人(とくに五〇代から下の世代)は、五常の徳目について、ほとんどの人が教えられていない。代わりに何が、思想体系として教えられてきたのでしょうか。何があなたの思想、行動を支えていますか。自由、平等、人権、個人、進歩、民主的であるか、科学的であるか、経済的であるかでろうか。考え直してみたいものである。
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by fumonken | 2010-01-24 20:09 | Comments(0)

この国のこころ…不信心

今生きている日本人の多くは「私は宗教心がない」と思っている人が大多数であろう。そう言う人々に対して、私は坊主として、それは正しい見解ですよと申し上げる。

日本語の「宗教」という語は、幕末期に西洋語のReligionを「宗教」と訳され、学問の上の言語として明治初期に広まったとされる。ちなみに英語のReligionはラテン語のreligio「再び」という意味と「結びつける」という意味のligareの組み合わせだそうだ。ちなみにreraltion(関係)もReligion(宗教)と一緒の語源である。ということからReligion(宗教)という概念には「神と自分を再び結びつける」「神と自分の関係性」という意味がある。

もともと一〇〇年そこそこの外来語である「宗教」という概念が、今の日本人の認識としてあるわけありません。そもそも日本語ではないのである。学問的な言葉であったわけである。

では日本語ではなんというのか。それは「信心・信仰心」です。「私は宗教心がない」ではなく、「私は不信心です」と言えばいいのです。実はその「宗教」と「信仰」の違いを読み解くと、今の日本人の姿が見えてくる。
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by fumonken | 2010-01-22 17:14 | Comments(0)

この国のこころ…人としての行動規範

「政治とカネ」。連日、報道されている。かくいうマスコミはそんなにお金にまみれていないであろうか。最近の新聞や雑誌の紙面には所狭しと広告が載っている。しかも記事にしても自ら取材をして本当に美味しいと思った食事の記事を載せているわけではなく、ほとんどがパブリシティではある。広告主の顔色をうかがって、記事の内容に「イロ」が着くことはないのであろうか。そう言う意味で「カネ」に振り回されている。つまり「カネ」がその行動規範になっているわけである。

しかし実はこれは、政治家やマスコミだけの問題ではない。多くの日本人(もちろん坊さんも大いにその傾向にある)が考え直さないと行けない問題である。

「人としての行動規範の徳目を何に於くか」このことが伝えられていない今の日本人。戦前までは「卑怯者」「無礼者」、こんな古葉があった。では何を以て卑怯なのか。何を以て無礼なのか。それが行動規範の徳目です。人としての行動規範をその徳目に照らし合わせて判断するわけです。

その徳目は子供や大人、職業や性別によって多少違いがあった。ただし共通して言えることは、「私よりも公を重んじる礼節」。人に道に反していないかどうか。実はこの行動規範を持っているか否かが、人類学的にも日本人か否かの判断材料だと思う。
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by fumonken | 2010-01-21 19:44 | Comments(0)

自分と主張し始めた日本人

この六十年、日本人は「自分」という観念がその行動の原動力になってしまいました。自分はこう思う、自分はこれをしたくない。自分で決めた…。自分という言葉は明治以降にできた言葉であるらしいです。つまり自分という観念がそれ以前の日本人にはなかったと言うことです。ちなみにそれに近い言葉では「我」「私」「それがし」という言葉はありました。

「自分」という言葉は、言語学的に反射代名詞というそうです。その意味は一人称・二人称・三人称の別に関係なく実体そのものをさすそうです。「あなたと私」「お父さんと私」「妻と私」「社長と私」。私という語感には人と人との関係性がありますが、「あなたと自分」「社長と自分」…。ちょっと日本語として「私」より「自分」の方が主張が強くないですか。

ここに小学生の子供がよく遊びに来ます。彼ら彼女らはまだ「自分」とは言いません。「私」「僕」「オレ」と言いますね。

私は今の日本人、特に若い人の閉塞感の根底、原因はずばり「自分」という観念に束縛されてしまっていることだと思っているんです。私はここに泊まりに来る若い人たちに「自分」という観念から解放を説に説いているんです。なぜ「自分から私へ」と変えて欲しいか。それはまたお話しします。
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by fumonken | 2010-01-15 13:36 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

おばあちゃんと

私は実家へ帰るとほとんど祖母の所へ行っています。祖母と一緒に話しをしたり、古いアルバムを見たりしております。色々な想い出を聞き、これが本当にいい時間です。祖母も私の帰りを待ってくれております。本当に嬉しいことです。今年九十三歳になる祖母は、毎日朝食、昼食を自分でつくり、掃除も毎日して、本当に頭が下がります。一日のうちで一番好きな時間は、夕方の「水戸黄門」だそうです。
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by fumonken | 2010-01-06 18:22 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

自分への戒めとして

人は将来のために、新しいものごとを得ようと、意識せずとも向かっていくものです。それは新しい家具、新しい家、新しい車だけではなく、新しい会社、新しい制度、新しい方法、新しい関係…。それは人は進歩する。進歩は正義だからです。古いものにしがみつくこと、とらわれることは、懐古趣味という言葉で片付けられます。

私は全くそう思いません。全くの逆です。人が新しいものごとを追っていく原動力は、進歩でも何でもなく、人の欲望だと思っています。その欲望に打ち勝つために、人は経験や、歴史や、伝統に敬意を払ってきたんじゃないのかと思っているわけです。
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by fumonken | 2010-01-05 17:08 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

「生かされる」命

この国で「心の時代」といわれて久しい。ところが上に立つ者が、その「心」が何かわからない。伝えるべき「心」がわからない。その伝えるべき「心」とは「生かされる」という心の持ちようである。これでいい。これがすべてである。「人は生かされる」是が最も大切な心。

「生かされる」。これが神道、日本仏教の宗旨である。「生きる」ではない。「生かされる」である。その命に対する観念・心から始まり、道徳が生まれ、法律も生まれ、秩序も生まれ、人の活動も具現化する。経済、お金のために道徳が生まれ、秩序が生まれるのは出ない。「生かされる」、この心ですべてがうまく回る。
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by fumonken | 2010-01-01 11:05 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)