普門軒の禅寺日記・京都の宿坊・お寺に泊まる

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方丈庭、完成

本日、ここにめでたく方丈庭の完成を皆さんご報告申し上げます。この作庭に於いて、植木屋さんにおかれましては大変お世話になりました。私が何度も何度も、石の配置などをお願いしたり、我が儘ばかりでしたら、愚痴一つ言わず、納得いくまで仕事をして下さいました。また宿坊に泊まってくれた多くの方々にもお手伝いいただきました。着工下のは冬の二月下旬。思えばもうすっかり秋です。いやー、長かった。これから随時、以前の庭もブログでご紹介していきます。どれだけ変わったか、ご堪能下さい。
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by fumonken | 2009-10-31 17:51 | 日課抄・歳時記 | Comments(1)

方丈前の庭、完成間近

いよいよ方丈(本堂)前の庭が完成に近づきました。今日、ようやく石畳も完成し、昨日から海(に見立てた場所)に赤土をまき始めました。明日には完成予定です。もうすぐです。何とか晋山式に間に合いそうです。
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by fumonken | 2009-10-30 19:24 | 日課抄・歳時記 | Comments(1)

晋山式まで残り十日

晋山式挙行まであと十日となってしまいました。たくさんの人のおかげでなんとか、形になるのではないかとそう言うところまでに成りました。あとは庭の整理と掃除だけです。玄関先の庭も今日、竹垣をこしらえて一応完成。細かいところは識の後に徐々に進めていきます。
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by fumonken | 2009-10-29 13:31 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

玄関先の庭

晋山式に向け、玄関先の庭にも着手。だいぶ形になってきました。先日、雨の中、宿坊にお泊まりの方々と一緒に石を動かし、その石を中心に庭造りをしました。まだ途中ですが、こんな感じです。
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by fumonken | 2009-10-24 17:20 | 日課抄・歳時記 | Comments(1)

おばあちゃんの衣

普門軒では、来る十一月八日(日)に晋山式といってお寺に新しい住職を迎える儀式を行います。新しい住職とは私のことなんですけども。本来は檀信徒、先住の和尚、関係寺院が中心となって、儀式を計画、運営いたすわけです。しかし現在、多くの場合、新しい住職が自分でその段取り行います。

その晋山式の際に、金襴の豪華な衣や袈裟を新調するわけ何ですが、檀家も少ない普門軒ではなかなか寄付も募れません。でも私はとても幸せです。そんな豪華絢爛な衣や袈裟など必要有りません。

私が修業時代、私の祖母は長さ二十センチ程度の絹糸を来る日も来る日も、結び続けてくれていました。衣を作るためなんです。その結んだ絹糸を、直径十センチくらいのたまにしていくんです。それを見かねた両親もいっしょに結んでくれたそうです。あわせて四十個以上結んでくれたでしょうか。それを染屋で染めて、そして反物にし、さらに衣に仕立てくれました。三人で結んでくれて、晋山式を前に衣と袈裟までできたんです。糸を一本一本結んでいますから、ひげ紬に成っています。本当に考えられないことです。これは私の、いや普門軒の宝ものです。

おばあちゃんは今年九十三歳になりました。とてもともて元気なんですが、高齢のため私の晋山式には出席してもらえません。式が終わったら、その衣を着て、おばあちゃんといっしょに、ご先祖様にお経を読もうと思っております。
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by fumonken | 2009-10-20 15:56 | 日課抄・歳時記 | Comments(2)

夫婦別姓のコメントに対して…

ハチさんへ
夫婦別姓への私のブログの拝読、およびコメント、本当にありがとうございます。私も考えさせられました。もしハチさんが私の今回のブログお読みになったら、是非是非教えて頂きたいことがあります。

私はお寺の住職をしておりますが、実際のところ(あくまでも私の感覚ですが)、ご先祖の供養に対する檀信徒の姿勢は蔑ろの一途をたどっておるようにおもわれます。
ハチさんは「伝統は人間の知恵の結集だ。しかし、その姿は時の流れのなかで変化を積み重ねる。ある時代の形のみに囚われてしまうと、肝心な知恵の結集が見えなくなる」とおっしゃっておられます。

確かに、住職である私は、法事や月参り、彼岸供養など直接、関わっておりますので、先祖供養とはこうだ、イエとはこうだと、いう思いが強いのかもしれません。その結果、ハチさんのおっしゃっておられる「ある時代の形のみに囚われてしまうと、肝心な知恵の結集(伝統)が見えなくなっている」のかもしれません。

逆にお伺いしたのですが、(ある時代の形のみに囚われてしまっていないからこそ?)ハチさんに見える、家族やご先祖を蔑ろにしないための「肝心な知恵の結集(伝統)」とはいかがなものなのかを是非教えて下さい。是非その知恵の結集を教えていただきたいです。私もそれを生かしていきたいです。

ちなみにこれは余談ですが…。
ハチさんがおっしゃっているとおり「多くの人が苗字を持つようになって100年余り」という考えがあります。これは江戸時代の話ではありますが、寺や農村の古文書等を見るとそのほとんどの場合において、私称ではありますが名字や屋号を確認することができるそうです。小作人までも名字の書いてある古文書も多く存在しているそうです。それ故、現在では「江戸時代の庶民には名字が無かった」という説は、研究者の間でほぼ完全に否定されているそうです。古文書を研究している友人が以前、そう言っていました。実際、私のお寺の過去帳もすべての人に、血縁共同体としての屋号もしくは名字と、その続柄が書き記されております。
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by fumonken | 2009-10-14 21:12 | 日課抄・歳時記 | Comments(4)

虚しさ

先日、ヤフーのニュースに風船アートの国際コンテストの記事と写真が載っておりました。巨大な恐竜なのか、ドラゴンなのか。たくさんの風船を使って、作ってありました。どうやらそれらを風船アートというそうです。

「だからなんなの?」。私の感想です。

奇しくも大きな禅寺に行きますと、本堂の天井に大きな龍の絵が描かれております。またある神社の祭の時にわらで大きな龍を作る習わしもあります。それらの龍と風船アートのドラゴン。私にとって明らかに違いを感じさせます。それはむなしさです。風船アートのドラゴンを作った人と本堂の天井に大きな龍を描いた作り手の思い、そしてどれだけの人に望まれて生まれてきたのか。この差です。それを思うと虚しさをかんじます。

天井の龍や祭りの龍の周りには「信」という思いを持った人々がたくさんいます。しかも「信」という思いを持った人々はその時代だけでなく、前の時代、次の時代にも存在します。そしてそれらの時をも超えた人々の思いに答えんとする作り手がいます。

そんなことに思いを抱くと、風船アートのドラゴンはとても虚しく思えてきます。あのドラゴンどんなにたくさんの人々の思いによって生まれてきたのでしょうか。本当に望まれて生まれてきたのでしょうか。もっというと本当にアート(芸、技、術)と言えるのでしょうか。単なるパフォーマンスではないでhそうか。今のご時世はそんな物が多すぎます。これは「信」のある祭りと、「一過性」のイベントの違いであることでしょう。
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by fumonken | 2009-10-13 19:42 | 日課抄・歳時記 | Comments(1)

玄関前

玄関前に大きな石を運びました。これがとても大変な作業でした。宿坊の泊まった方と一緒に運んでもらいました。「あーでない、こーでもない、こーやったら、あーやったら」と試行錯誤の上、ようやく運んだわけです。動いたときの感動は、忘れられません。泊まられた方もそうおっしゃて、岐路につきました。
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by fumonken | 2009-10-02 08:27 | 日課抄・歳時記 | Comments(2)