普門軒の禅寺日記・京都の宿坊・お寺に泊まる

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カテゴリ:日課抄・歳時記( 439 )

無限

西洋哲学では「なにも無い=NOTHING」という意味ですが、仏教哲学では「無限=INFINITY」と捉える。鈴木大拙の言葉である。
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by fumonken | 2016-01-02 18:39 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

今の日本の暮らしでは

ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

『方丈記』の冒頭であるが、とても今の日本の暮らしからは、正直、出てこない言葉だ。
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by fumonken | 2016-01-01 19:41 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

また昭和はひとつ

先週の原節子さんの訃報に続き、今日、漫画家の水木しげるさんがお亡くなりになった。
その作品は改めて言うつもりはないが、私はやはり『マンガ昭和史』がもっとも印象に残っている。私自身も祖父の歴史を聞き語りでまとめたが、はやりご自分でご自分の歴史を書かれているだけに非常に説得力とリアリティのある内容に何度も読み返した。戦前と戦時中の普通の日本人の歴史がそこにはあった。

そんな本当の戦前、戦中を生きた人がまたひとり亡くなった。本当に言葉に言い尽くせない。

ご冥福を心よりお祈りいたします。
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by fumonken | 2015-11-30 18:02 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

古き良き日本が又遠くになっていった

女優の原節子さんが9月5日に亡くなっていた。私は学生時代に小津映画を知ったが、原節子さんの存在は一際、存在感のある方だった。本当に日本の女性は品があって美しいなーと思った。

それ以上に、後生の生き様に驚いた。42歳で突然の引退。鎌倉市の自宅で全く姿を見せず、徹底した隠とん生活を送った。普通ならば、あれほどに地位や名声を手に入れた方なら、いろいろなことに声を上げたり、その存在感を見せたいものだ。しかし原さんはそういうことは一切なさらず、50年以上、その姿勢を崩さず、結局、そのままお亡くなりになった。
本物でないとできない。隠とんと一枚になっている。

言葉にはできない。ただ、昭和がまたひとつ遠くなった。本当に悲しいことで、無常観を感じる。

ご冥福を心より、お祈りします。
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by fumonken | 2015-11-26 13:53 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

「守る」と言うことと、「とらわれる」ということ

なかなかにしてそれを見極めることは難しい。

「守る」と言うことと、「とらわれる」ということ。自分はそれを守るために行動しているのか、それともそれにとらわれているから行動しているのか。

その見極めは非常に難しい。
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by fumonken | 2015-10-10 09:21 | 日課抄・歳時記 | Comments(1)

それを言っちゃー、おしめーよ

私は映画『男はつらいよ』が好きだ。寅さんの言葉にはよい台詞がたくさんある。

なかでも最も好きな台詞が

「それを言っちゃー、おしめーよ」

人生にはいろいろなことがある。山もあれば谷もある。いろんな人も居れば、いろんな立場に置かれることもある。しかし、どんなに自分にとって納得のいかないことがあって、やっぱり己の中でかみしめておかないといけないことがある。

それを言葉にすることによって、それを行動におこすことによって、もっと大きなものを失ってしまう。

そんなときは、己の心に対して

「それを言っちゃー、おしめーよ」

と、己の心に対して、叫び、静かに幕を引こう。
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by fumonken | 2015-10-01 08:47 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

雑草という草はないんですよ。

お寺という所は因果なもので、草引きという作務がある。草引きをしていると、時折、浮かぶ言葉がある。それは昭和天皇のお言葉だ。

昭和天皇と侍従が皇居内を散策なさっておられる折、雑草が生い茂っていた。それ見て、侍従が随分手を尽くしたのですがこれだけ残ってしまいました。いずれきれいに致します」というような言葉を昭和天皇に述べると、陛下は、

「何を言っているんですか。雑草という草はないんですよ。どの草にも名前はあるんです」。

というお言葉だ。この言葉には続きがあって、調べてみると、こう続く。

「どの植物にも名前があって、それぞれ自分の好きな場所を選んで生を営んでいるんです。人間の一方的な考えで、これを切って掃除してはいけませんよ」とおっしゃったという。
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by fumonken | 2015-09-05 09:41 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

関心について

「関心」の意味は、心にかける、心配する、気にとめる、注意するという意味である。

「関」という字は旧字体で「關」と書くが、門構えの中の字は「貫く」という意の字である。もともと門に閂(かんぬき)を横に通して、門を閉ざすという意味らしい。転じて関は調べるところという関所の意味になった。また調べるところという意から「関心」、「関知」、「関白」などいう言葉もでてきた。

その「関心」であるが、最近、「関心」というと「興味」という意味合いで用いることが多いと感じる。

これは英語の「interest」を、関心、興味として、いっしょの言葉として翻訳したからではないだろうか。ちなみに、それこそ興味深いことに、「interest」には他に「利益」「利害関係」「利子」という意も含む。

日本語の「関心」という言葉に、いつしか、自分にとって「利のある事柄に対して」心にかける・気にかけるという使い方にはなっていないであろうか。
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by fumonken | 2015-07-31 20:39 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

反復とズレ

以前、小津安二郎監督の映画の本質、根源にある文脈を「反復とズレ」だと、吉田喜重監督はおっしゃっておられた。

「映画『父ありき』のある場面。川で父親と息子が並んで釣りをする。その反復動作。それの繰り返し。それがいつの間にかズレていく。それが父と子が他人になるというふうに私にはうつった」

こうおっしゃっておられる。

「反復とズレ」。なるほど小津映画は確かに「反復」の連続であり、その些細な「反復」の日常を描いている。その中に、独り立ちや結婚、また死といった「ズレ」が描かれる。

「反復」は永遠ではない。いつかは「ズレ」を迎える。生老病死。しかし「ズレ」も永遠ではない。

反復とズレ。どちらも受け入れなくてはならない。反復も無常であり、ズレもまた無常あろう。
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by fumonken | 2015-05-19 10:34 | 日課抄・歳時記 | Comments(1)

「寺」という字

「寺」という字は非常に興味深い。
「土」と「寸」に分かれるが、「土」はもともと「止」という字で、【使う】という意味がある。「寸」は【手】という意味であることから【仕事をする】という意味になり、ひいては、【仕事をするところ・役所】という意味があったそうである。
時代がさらに下って後漢の時代から、仏教の事務・仕事を行う【てら】という意味になった。

さら「寺」を音符とする時をみると、すこぶるおもしろい。

仕事のできる人が「侍」であり、仕事の日が「時」である。
また、仕事を手すれば「持つ」ことになり、仕事とはコツコツと行うことは、「待つ」ことである。さらに仕事に心と書いて、「恃む」というように、仕事の肝心なことは、己を信じ、自らをあてにせよというのである。孫子に曰く「吾の以って待つ有ることを恃む」というところであろうか。

そして、仕事を通して互いに語り合えば、それが「詩」となるのである。

「寺」とはまさに仕事をするところ、畢竟、己を生かすところである。若い者よ、己を生かしに寺に来い。
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by fumonken | 2015-05-05 09:39 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)