普門軒の禅寺日記・京都の宿坊・お寺に泊まる

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カテゴリ:日課抄・歳時記( 438 )

私という字

気がつけば、すでに9月。2ヶ月もブログを更新していないと、いろいろな方面からどうしたのかと失跡をいただく。久しぶりにブログを更新しなくては。やはり関心のある漢字ついて書こう。

「私」という字は、穀物という意の「禾(のぎへん)」に、囲うという意の「口」(のちに「ム」となる)からなる。穀物を自分だけのものとして囲うというのが「私」の語源だ。

「ム」という字は「自分だけのものとして囲う」というのである。非常に興味深い。

そうすると、「公」は「八」という字に、「自分だけのものとして囲う」という「ム」からなる。自分だけのものとして囲っているものをどうするというのか。「八」の字の意は「開く」という意の字であるという。

自分だけのものとして囲っているもの、もしくは囲もうととしたものを「開く」のである。それが「公」の語源だ。



ちなみに「和」という字は、「禾」と「口」から成り、「私」の字のように穀物を自分だけのものとして囲うという字のように見える。しかし「和」の「禾」はのぎへんではなく、加わるという意で、部首としては「口(くちへん)」の字である。つまり「和」は人の声に応じ合わせるというのがその語源である。
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by fumonken | 2016-09-10 10:21 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

恥と耻

日本語はいまでも「恥」を「耳」に「心」と書く。

中華人民共和国語(簡体字)では、「耳」に「止」と書いて「耻」。これが「恥」という字だそうである。
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by fumonken | 2016-06-12 12:41 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

ハンス・フォン・ゼークトの言葉

ヴァイマル共和国の軍人に、ハンス・フォン・ゼークトという陸軍大将がいた。
彼が語ったとされるのが、軍人を有能、無能、働き者、怠け者の4つのタイプに分ける「ゼークトの組織論」と呼ばれる軍事ジョークがある。

「有能な怠け者」は有能であるが故に事の是非を決することができる。 そして、怠け者であるが故に他人を用いて任せることもできるので「前戦の司令官」として最適である。

「有能な働き者」は事を判断することはできるが、働き者であるが故に他に任せきることができない。 よって、上に立つよりも「作戦参謀」として輔佐する立場が適当である。

「無能な怠け者」は自分で判断できないし、自ら動こうともしない。 よって、命ぜられたことをそのまま遂行する「連絡将校」か「下級兵士」に適任である。

「無能な働き者」は自分で適切な判断もできないのに、勝手に動く。 これは、余計な事をして迷走するので「銃殺刑」に処した方がいい。


しかし僧堂(禅宗の修行道場)では、 「無能な働き者」こそ、一所懸命に修行に励むことと思う。
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by fumonken | 2016-05-30 21:09 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

分担、階級、格差

分担とみるか、階級とみるか、格差とみるか。
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by fumonken | 2016-04-17 19:37 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

「見える」規則

禅寺にはたくさんの規則(ルール)がある。これを規矩(きく)と言う。
例えば、朝は何時に起きないと行けない。ご飯の食べ方はこうだとか、掃除はこうしなくてはならないとか、坐禅をはじめる前に仏様に礼拝するなど。禅寺で生活する上で多くの規則がある。

これは何も禅寺に限ったことではない。我々が生きている以上、我々の行動様式は多くの規則によって営まれているのである。

この規則であるが、「則」という言葉は、おきて、さだめ、標準という言葉の意味である。
「規」という字は「夫」と「見」という文字からなる。「夫」とは道具や物差しの意味である。その道具や物差しが「見える」というのが、規則の「規」の字である。「見える」ということが非常に重要で、だから「規則」ということは、我々の行動様式のおきてやさだめ、標準様式が、「文章化」「明文化」して「見える」状態にたものなのである。


一方で、禅寺では「工夫しろ」ということをやかましく言われる。

「工夫」と「規則」、一見、相容れない概念であるとおもれるし、私もはじめはそう思っていた。

むしろこの「工夫」こそ、禅の修行の見せ場である。

次回はこの規則と工夫の話をする。
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by fumonken | 2016-04-04 10:51 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

「脱○○」

全日空の国内線搭乗手続きのシステムに障害が出たということだ。ロビーでの混雑している様子が写真に出ている。コンピュータが世の中の重要なシステムの一つであると言うことを感じる。

こういうことが起きると、やれコンピュータ社会への危惧とか、次世代の何とかなどと、ことさらにかき立てる。

これは良い。これは必要、これは悪い、これはいらない。「脱○○」とか・・・。

禅はこういったとらえ方をしない。そのもの「存在」の善し悪しに関心をよせるのではなく、「存在」と「存在」とを結んでいる、そのときそのときの「関係性」に関心を向けなさいという。我々がその「存在」とどうつきあっていくのか、そういうことに関心を持つのである。問題は外にある「存在」ではなく、我々自信がその「存在」との「関係性」をどうとらえ、そのときどきでどうつきあっていくのかということである。
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by fumonken | 2016-03-22 11:58 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

春季彼岸会法要

今日、春分の日は普門軒の春季彼岸会法要だった。正直、毎年、思うことなのだが、今年は何人お参りに来て下さるだろうかということだ。

しかし、毎回、たくさんの方がお参りに来て下さる。

これは畢竟、先住さんのおかげだなと思う。先住の和尚さまが、これまでの長い間、真摯につとめていただき、檀家の方々を大切になされ、信頼を気付きあげたおかげであると痛切に感じる。

本当にありがたいことである。
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by fumonken | 2016-03-20 20:42 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

「差」と「區」

「差」という話をした。今日は差別と区別。

「差別」。「差の別ける」と書く。「差」という漢字は、「麦」という字と「左」という字が組み合わさってできている。「左」には低い位置や正しくないとか支えるという意味がある。つまり「差」という字は「不揃いの麦の実」という意味から来て、いわゆる何かと何かの「差」という意味になった。
「差別」には明らかに「違い」とか「違う」の意味合いが含まれている。

一方「区別」。「区」という字は旧字体で「區」と書くが、隠すという意味の「匸」という字の中に、いろいろなものという意味の「品」という字が入る。つまり「多くのものを隠す」という意から、「わかつ」とか「くぎる」という意味になった。もともと「違い」という意味合いはない。
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by fumonken | 2016-02-10 17:36 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

私の師匠筋に当たる盛永宗興老師は「さとり」とは、「差」を取ることだとおっしゃった。

考えてみれば、ここ数年「格差」という言葉を、かくもこのように日常の言葉として聞くようになるとは誰が想像したであろうか。

自分を大切にすること。裏を返せば、他人と「差」をつけることだ。
自分の能力を高めること。裏を返せば、他人と「差」をつけることだ。

禅でいう「差」取りとは、自分を大切にするなと言っているわけではない。自分の能力を高めるなと言っているのではない。他人と「差」をつけてしまう心を改めたい。そのために自分を大切にするという方法もあれば、自分の能力を高めるという方法もあろう。
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by fumonken | 2016-01-12 18:39 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)

無限

西洋哲学では「なにも無い=NOTHING」という意味ですが、仏教哲学では「無限=INFINITY」と捉える。鈴木大拙の言葉である。
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by fumonken | 2016-01-02 18:39 | 日課抄・歳時記 | Comments(0)