普門軒の禅寺日記・京都の宿坊・お寺に泊まる

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カテゴリ:禅・仏教について( 79 )

宝蔵経

怨恨(うらみ)なき教えを仏教となし
訴訟(あらそい)なき教えを仏教となし
誂謗(そしり)なき教えを仏教となす
宝蔵経

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by fumonken | 2017-07-22 15:31 | 禅・仏教について | Comments(0)

禅の修行

「自分は貧乏であったこと。自分は病弱であったこと。自分は学歴がなかったこと」

松下幸之助氏は「一代で世界企業にした成功の秘訣は」、との質問に対しての答えが上記である。氏は「貧乏」であったから一所懸命に働き、「病弱」であったから摂生に努め、「無学歴」であったから勉学に励んだということだ。


仏教では、
自分とは「存在」があり、その存在には「本質」があり、その存在と本質には「能力」があり、その存在と本質と能力には「働き」があるととらえる。

そしてその「存在」と「本質」と「能力」と「働き」によって、自分に起こりうるの「直接的原因」がつくられるというのである。

その「直接的原因」と自分のまわりをとりまく「間接的原因」によって、自分に起こる「結果」が生まれる。
そしてその「直接的原因」と「間接的原因」によって、まわりに起こる「影響」が生まれるというのである。

禅の修行は、自分という存在の「本質」と「能力」と「働き」を見極め、それを素直に受け止めることにあり、そしてそれを磨くことにある。

自分への結果やまわりへの影響は後でついてくる。
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by fumonken | 2016-04-27 12:20 | 禅・仏教について | Comments(0)

「自づから」と「自ら」

「自」と言う字は、鼻の形を形取った字である。鼻を指して自分を示すところから、転じて自己の意味となった。

訓読みでは、「おのづから」と「みづから」と読む。

「己(おの)+づから」と「身(み)+づから」からきている。
「づから」とは「つ+から」で、「つ」とは「の」の意味である。例えば、目の毛で「まつげ」。沖の海底を「沖つ白玉」といったりするが、その「の」という意味である。
「から」はそのまま今の意味での「まま」である。

ゆえに「己づから」は「己のまま」であって、「身づから」は「身のまま」という意味になる。

己と身の違いが「自づから」と「自ら」の違いといえる。
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by fumonken | 2015-07-01 14:41 | 禅・仏教について | Comments(0)

わかったようで、わからん

昭和の禅者である鈴木大拙博士はこうおっしゃっておられる。

「そうなんだ。わかったようでわからんようなんだ。
ところが、
わかったようで、わからんというところに、
何かわかったものがなければ、
そういうえんのだ。よごすか。
わかったようで、わからんという、ところに、何かわかっておるものがなければ、そういうえんのだ」
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by fumonken | 2015-02-13 20:32 | 禅・仏教について | Comments(2)

差を取る修行

私の師匠筋に当たる盛永宗興老師は「さとり」とは、「差」を取ることだとおっしゃった。
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by fumonken | 2015-01-05 14:35 | 禅・仏教について | Comments(0)

禅は「治す」修行

ちまたに「自分を変える方法」とか「自分を変えたいためには」などの文言をよくみかけるようになって、久しい。

しかし禅は違う。禅は「自分を変える」のではなく、「自分を治す」のである。

禅には、理想はない。禅にあるのは本来だ。ちまたでみる本やセミナーは理想的な姿に自分を変得ていかなくてはなれないのかもしれない。しかし禅は本来の姿に治すのである。それが禅の修行だ。
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by fumonken | 2014-09-18 20:41 | 禅・仏教について | Comments(0)

坐禅について

禅の暮らし、日本の暮らしをしたければ、何よりも庭を持たなくてはならい。大きくなくても構わないが、せめて六畳分くらいの大きさはほしい。地面のうえ、下草が生え、木が植わっていて、小石があり、石が据えられている。ライトアップなんか必要ない。静かであれば尚いい。

その庭の木はひたすら植わったまま。石はひたすら据えられたまま。あれやこれや為そうとしない。そんなに和の前で己は坐禅をする。目の前の庭の木や石と同じように、己はただひたすらに坐ったまま。あれやこれや為そうとしない。己の中の自然がもどってくる。

そのためにも、何よりも庭を持たなくてはならない。
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by fumonken | 2014-07-11 06:16 | 禅・仏教について | Comments(0)

思想と思考

思想と思考という言葉があるが、どう違うのか。

「思想」は人生・社会・政治などに対する一定の考え。
「思考」は直観・経験・知識などをもとに,あれこれと思いめぐらすこと。

こう辞書では書いてある。思想は明治の言葉で、つまり西洋の言葉を訳した和製漢語である。思考もそうだと思われる。もともと思考にあたる日本語は「思惟」で、思いはからうこと。考えること。分別することである。もともと仏教の言葉である。

「思惟」は空の思想が発展すると「一切の思惟分別を断ずる、これを正思惟となづく」などといい、禅においては真実は無智、無分別、無思惟のところで得られるというのである。

「人間は考える葦」と言う言葉があるが、全く違う「思想」をもっている。
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by fumonken | 2014-07-07 19:43 | 禅・仏教について | Comments(2)

「自然」とは

明治時代、西洋の言葉をたくさん訳しました。その作業たるや、日本の近代化に非常に役立ったことは言うまでも有りません。しかし同時に、大きな間違いをしてしまった訳語がいくつかあります。その一つがnatureです。

英和辞典を引いてみて下さい。私たちは今、natureを「自然」と訳します。言い換えるとnatureの意味として「自然」という漢字を当てています。

仏教学者の鈴木大拙はこのnatureに対して「自然」という字を採用したことを、
「これがわれらをして、東洋的思想の中で最も大切で根本的なものを忘れ去らしめた事由となったのである」
と言っておられます。

東洋的思想の中で最も大切で根本的なものが「自然」という概念であると言っておるのです。

では「自然」とはどういう意味なのか。

「この「自然」とは「自ら然る」の義で、仏教者のいう「自然法爾(じねんほうに)」である。他から何らの拘束も受けず、自分本具のものをそのままにしておく、あるいはそのままで働くの義である。(中略)「自然」には相対性はない、また客観的でない。むしろ主体的で絶対性をもっている。「自己本来に然り」という考えの中には、それに対峙して考えられるものはない。自他を離れて自体的、主体的なるもの、これを「自然」というのである。
西洋のnatureは二元的で「人」と対峙する、相剋する、どちらかが勝たなくてはならぬ。東洋の「自然」は「人」を入れておる。離れるのは「人」の方からである。「自然」にそむくから、自ら倒れて行く。『日本再発見』より

少々長く引用しましたが。おわかりなりましたか。
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by fumonken | 2014-04-19 20:09 | 禅・仏教について | Comments(0)

とんち話

とんち話というと、

「そもんさん!」

「せっぱ!」

と言いますが、これは
「作麼生(そもさん)」=問題を出すぞ!
「説破(せっぱ)」=答えてみせよう!


と言う意味です。「作麼生」は宋代の俗語だと言うことです。


とんちは頓智と書きます。頓は「すぐに、即座に、急に」と言う意味で、智は仏教の言葉「智慧」のことで、真理を見極める認識力という意味です。

難しく言うと、頓智とは「その場に応じて即座に対応できる、認識力」といえます。

これは何ににもとらわれていないからこそ、即座に対応できる。これこそ禅の真髄です。「無我」や「無心」といってもいいでしょう。
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by fumonken | 2014-03-25 15:26 | 禅・仏教について | Comments(1)